聖ヴァレンタインデーのそわそわについての一考察

 聖2月14日に女の子に連絡を取るのはなんだか気が引けてしまう。その女の子のことは何にも知らないけれど、その周辺の男の子に対して申し訳ない気持ちになる。僕なんかのためにこの女の子の時間を使わせてしまって、という感じ。そう思うくらいにはその相手を意識しているが、そう思うくらいにはどうでもいいということなのだろう。
 連絡を取って返事が来なかったら、それはそれでお楽しみなんだな……と薄暗い気持ちにもなるし、そうでなくても時間を使わせてしまう罪悪感と、なんとなく意識してしまわなくもない気持ちが混在するのである。今日連絡を取らなくて済むのなら喜んでそうするが、そうしなければならないのが男のサガであり、それはちょっと気になっている子くらいが一番悩ましい。
 男という生き物はヴァレンタインにこそ女の子と話したいのであり、そこには、あわよくば、という疚しい考えもあるのだろう。一説によればこの日にだけ女の子の方から告白してもよいという言い伝えさえあるので、あわよくば、となる男子は多い。
 きっと、この罪悪感の正体は、そういうことなのだ。その子のその時間を独占してしまう申し訳なさなのだ。気持ちはどうあろうとも、時間を使わせてしまうということ。その気持ちが醸成されて、あわよくば、という妄想に男は走る。みんな走る。男にとって、ヴァレンタインほどそわそわする日はないのだ。
 みんな心の何処かに、あわよくば、という気持ちを抱えている。「義理でしょー?」と言いつつ心の中には、一腹抱えている。そこには蒸留された罪悪感が存在し、それは妄想となって、布団の中を彷徨う。
 ヴァレンタインにさえ女子と目の合わない男にも、ふた腹はあるだろう。みんなあわよくばと思っている。「どうせ俺になんて……」と思いつつ、スマホを引っ張り出してLINEのリストを眺めたりする。
 女の子の方から誘惑される、かもしれない、という誠に男にとって都合のいいことが起こりうるこの日には、男の妄想は最高潮に達し、そして翌日には萎んでまたいつもの一日が始まる。
 聖ヴァレンタインという魔・時空間の日付に女の子に自分のために時間を使わせてしまうことの罪悪感に比べたら、そしてそれを培養する無意義に比べたら、こうしてなんか意味ありげな妄想を連ねることの方が、よっぽど有意義だと私は思うわけです。

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