どう思われてもいいという開き直りと、その結果としての決別

 人生のある時点で出会った人たちに対して、どう思われてもいいや、と思ったことがあった。そして、どう思われてもいい代わりに、その人たちと関係を保つのは止そうと思ってた。
 そういう類の開き直りは結果として自分を焼いた。とても焼いた。誤解が生じているとわかっているのにそれをなんとかしなかったことは、未来の自分=今の自分にものすごく影響を与えてる。簡単にいうと、そのことばかり考えてしまうことがある。誤解は宙に浮いたまま、僕の前を横切って行く。悔いばかりが残った。その齟齬を解いたとしても、あの頃の私たちには戻れず、いまの自分も報われるわけでもない。その時はあらゆる意味で「そのこと」がすべてだったのだから。
 その人たちとはありとあらゆる誤解を交わしているような気になっているけど、というか整理することもままならないほど自分は気に病んでしまっていて、そしてそのことごとを了解する気にもなれない。
 たぶん彼らは私が彼らの元を去った理由さえも誤解しているだろうし、もしかしたら、彼らの都合の良いように解釈していたかもしれない。
 こんな風に考えてしまうことがもう、執着であって、そして悔いなのだ。こんな目に会うくらいなら、きちんと彼らの目を見て、きちんと関係を外すべきだった。結局は 私が自分の都合の良いようにしていただけだった。自分が自分のしたことを自覚するのがつらいから、手を抜いて簡略化して、そして開き直ってしまっただけだ。その結果として悲惨なことになった。
 あの時にしっかりと心を開いていたら、全然違った結果になっていたかもしれないなぁとは思うし、そういう悔いも残ってしまった。誤解なんてなかったかもしれない。どう思われても良いことなんて何一つない。解けるなら解いたほうがいい。
 もうあれから10年以上立って、僕も変わったし、彼らも変わっただろう。僕がこのことを悔いているのは、たぶん、今の自分がうまくいってないからだと思う。そのことの原因を探ろうとしている節がある。過去に原因を求めても、過去が悪かったというだけで、いまのダメさを強固・固定することにしかならない。そうすることで今の自分を肯定する要素なんてありそうにないのに。
 自分に都合の良いように考えてるのだ、僕は、たぶん。そうしているうちは自分だけは正しくいられるから。そのことに気がついてしまったので、悔いているのだ。私は自分を正したいという気持ちが強いのだろう。でも「そのこと」と向き合いたくない自分がいる。今更、という気持ちもある。悔いているということは自分に非がある部分があるのだろう、きっと。そんな気がする。
 いつまでも自分を正しくしていたいのだ。それはとても卑怯な心持ちである。自分の非と向き合うべきだ。
 このままでは、このままだろう。残してきたものは、きっと、いつか、回収しなくてはならない。

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