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ブログ移行

これからは 美しい、君に見せなくては。 に書くことにしました。宜しくご贔屓に。

聖ヴァレンタインデーのそわそわについての一考察

 聖2月14日に女の子に連絡を取るのはなんだか気が引けてしまう。その女の子のことは何にも知らないけれど、その周辺の男の子に対して申し訳ない気持ちになる。僕なんかのためにこの女の子の時間を使わせてしまって、という感じ。そう思うくらいにはその相手を意識しているが、そう思うくらいにはどうでもいいということなのだろう。  連絡を取って返事が来なかったら、それはそれでお楽しみなんだな……と薄暗い気持ちにもなるし、そうでなくても時間を使わせてしまう罪悪感と、なんとなく意識してしまわなくもない気持ちが混在するのである。今日連絡を取らなくて済むのなら喜んでそうするが、そうしなければならないのが男のサガであり、それはちょっと気になっている子くらいが一番悩ましい。  男という生き物はヴァレンタインにこそ女の子と話したいのであり、そこには、あわよくば、という疚しい考えもあるのだろう。一説によればこの日にだけ女の子の方から告白してもよいという言い伝えさえあるので、あわよくば、となる男子は多い。  きっと、この罪悪感の正体は、そういうことなのだ。その子のその時間を独占してしまう申し訳なさなのだ。気持ちはどうあろうとも、時間を使わせてしまうということ。その気持ちが醸成されて、あわよくば、という妄想に男は走る。みんな走る。男にとって、ヴァレンタインほどそわそわする日はないのだ。  みんな心の何処かに、あわよくば、という気持ちを抱えている。「義理でしょー?」と言いつつ心の中には、一腹抱えている。そこには蒸留された罪悪感が存在し、それは妄想となって、布団の中を彷徨う。  ヴァレンタインにさえ女子と目の合わない男にも、ふた腹はあるだろう。みんなあわよくばと思っている。「どうせ俺になんて……」と思いつつ、スマホを引っ張り出してLINEのリストを眺めたりする。  女の子の方から誘惑される、かもしれない、という誠に男にとって都合のいいことが起こりうるこの日には、男の妄想は最高潮に達し、そして翌日には萎んでまたいつもの一日が始まる。  聖ヴァレンタインという魔・時空間の日付に女の子に自分のために時間を使わせてしまうことの罪悪感に比べたら、そしてそれを培養する無意義に比べたら、こうしてなんか意味ありげな妄想を連ねることの方が、よっぽど有意義だと私は思うわけです。

太陽系第三惑星の代表者

 この文章は、宇宙人が来た時に、地球の代表であるかのように振る舞うであろうボクたちヒトという種族の驕りについての一考察である。 ***  宇宙人が来て、笛を吹くとともに起こりうること。昆虫たちは宙に向かって翔び立って行く。植物は意思を持って動きだし、すべての「動物」たちは宇宙語を操って宇宙に還って行く。  ヒトだけが地球に取り残される。  そこで自分たちの驕りに気がつくのだが、すでに生態系は崩れてしまっている。 ***  私たちは自分たちが優れていると決め込んでいるが、本当にそうであろうか。何を以って優れていると言えるだろう。鳥のように自由に自力では飛べず、鯨のように何キロも離れて交信することもできず、獰猛な肉食獣を前にして、素手では何もできない。  人間は道具を使い、火を使い、言葉を使う。これまで知恵を使って様々なものを創ってきた。それは文明と呼ばれうるものだろう。  だが、そのことだけで、ヒトが地球の代表としてふさわしいのだろうか。偉いヒトがいるのではなく、偉そうにしている人がいるというだけなのではないか。ここまで地球を我が物顔に扱ってきたヒトは、地球の代表者として本当にふさわしいのだろうか。  宇宙人にとっての魅力が、知性であるとは限らないのではないか。疾く走ることであったり、空を飛べたり、交配の単純性だったり、はたまた水棲生物であったり、あるいはそのサイズだったり。ヒトはその時、邪魔者扱いされる立場かもしれない。  ヒトほど複雑で扱いにくい種族もないのではないか。意思を持ち、言葉を操り、道具を使い、それぞれに傷つけあい、まとまることもない。自分たちに都合の良いように過ごす者ばかり。私たちは今日も愛がなんなのかを知らない。 ***  すべては、46億年前から、謀られていたのだ。翔び立って行く「ドウブツ」たち。  私たちは宇宙のなにがしかを解明しているわけでもなく、ここにいる「動物」たちについても、我々ヒトについても、そのほとんどを知らないままではないか。 ***  自分たちに都合良く考え、行動するヒトたちよ。  私たちは私たちなりに生きているというだけなのに、こんなところまで来てしまった。  この地球の代表者は、果たしてヒトであろうか? そんな資格をヒトが持っているとは、ボクにはとても思えないのだが。

沈黙と「君」

 僕は、病気でしゃべることができなかった。しゃべらないということを、どのくらい自分の理性を以ってできるのか僕にはわからないけれど、とにかく僕はしゃべることができなかった。僕にはしゃべりたい人もなかったし、まったく孤独だった。ほとんど笑うこともなく、ただ生きているだけだった。簡潔に言ってしまえば、いろんなことに絶望していた。 ***  でも、しゃべれるようになった。それはいろんなことを許せるようになったからだと思う。認めることができたからだ。受け入れることができたから。しゃべれなかったことが嘘みたいに当たり前のようにわたしはしゃべり、笑っている。 ***  君にしゃべりかけるということを、どのくらい理性でこらえることができるだろう。  君を抱きしめるということを、どのくらい理性でこらえることができるだろう。  君にキスすることを、どのくらい理性でこらえることができるだろう。  君に恋することを、どのくらい理性でこらえることができるだろう。  それらをこらえることはどれもわたしにはたぶん不可能だ。  もしそうしたいのだとしたら、それは病いだろう。 *** 「君」というブラックボックスを用意したなら。恋に恋い焦がれている高校生みたいなことを考えたなら。恋は素敵。こらえることのできないその厚かましさを、僕は愛する。「君」が許してくれるなら、しゃべりかけ、抱きしめて、キスする。 ***  病いのわけはきっと様々で。きっといろんな理由で人は口を閉ざしてしまうのだろう。  僕の絶望が病いだったように、わたしのいつかの恋も病いなのだ。  僕たちは恋してく。  わたしたちは病んでいく。  家族はできても、孤独はきっと癒えはしないだろう。  今日も独りの夜を、「君」とふたりで。

縁は異なもの。それはいいもの

 私たちは出逢ったの。ちょっと不思議ね。それまでは他人だったのに、いつの間にか大事な人になった。  彼といるのは楽しかった。出逢ってから、何回か時間を過ごして、わかったの。この世には本当に相性のいい人がいるんだってことが。  合わない人、場、状況ってのがあるのよ、生きてると。そういうところに執着してしまうことほど、自分をつらい目に合わすことなんてないのよ。乱れるし、自分を見失うの。大事にされると人は執着してしまうものなのよ。そんな不幸はないわ。こんな話し厭ね。  合う人とは何をやってもうまく行く気がするのよ。刺激を与え合えるし、成長させ合うことができるわ。それでいて楽なのよ。この人と一緒にいられたらいいのに、って心の底から思ったわ。  ちょっと前までは他人だったのに、いつの間にか近しい間柄になって、刺激し合って、互いを高め合ってる。疑問があったらそれを指摘しあうこともできる。そういうことを促すし、受け入れてくれる。呼吸するのも笑うのも何もかもが楽なのよ、彼とは。  こうすることができるのって、彼のことを尊敬しているからだと思う。彼が私のことを認めてくれているのもわかってる。だから、こういう関係が築けているのだと思うの。そうじゃなきゃ、一緒にいることなんてできないわ。これからも一緒にいたいと思ってる。  こんなに幸せだと、不安もある。彼を失ってしまうとしたら、そう考えることさえも怖いの。こんなに合っている人とはもう出逢えないかもしれない。彼を亡くしたら、私も死ぬわ。抱き合って絡み合って死ぬのよ。彼との生活のない人生なんてない。彼はもう現れない。そう考えるだけで不安になるのよ。こんな人いないわ。  恋人がいる人はみんな言うわね。「これは運命の出会いだ」って。そう自分に言い聞かせているのかもね。私がそういう人と違うとは言えないわ。でも私の直感が言っている。この人のそばにいると、きっと人生はいい方に行くって。みんなそう言うのかもね。  合う人を見つけたら、逃したら駄目よ。捕まえて、観察して、話をたくさんして、自分に訊くのよ。  幸せになりなさい。自分のために生きることも、人のために生きることも同じなのよ。つらい時間なんて必要ない。楽しむために人生はあるのよ。自分の総ての時間を幸せになるためだけに使うべきだわ。何度でも言うわ。幸せになりなさい。

補助輪

 置かれた補助輪。はしゃいだ子供が乗ってくる。 ***  初めて自転車に乗れた日のこと。なんとなく乗れるような気がして、父に頼んで外してもらう。補助輪を外すには道具が必要で、それは自分一人ではできないことだった。なんとなく、それだってできそうだったのだけど、だってねじを回すだけだから。だけど、父に頼んだ。乗っているところを見て欲しかったのかもしれない。  ぼくは自転車に乗りたかった。補助輪はついていても、ついてなくてもどっちでもよかった。だからたぶん一年くらいつけていたと思う。そうするうちに上手くなっていって、補助輪なしでも走れるようになっていた。いつの間にか。それは実は父の調整の賜物で、父のレールの上にいつの間にか乗っていたわけだけど。  ぼくは当たり前のように父の前で補助輪なしで走って、なんだか誇らしかった。補助輪のシャラシャラ云う音をさせずに走ることができたから。気にしていないふりをして、やっぱり気にしていたのかもしれない。情けないという気持ちにはなっていなかったけど、なんとなく負い目を感じていたのかも。それは父がなるべく補助輪を外そうと工夫したことから感じる何かだったのだ。  言うなれば、社会性のようなもの。  人は社会に少しずつ適応したり、外れていたりする。人と違うことを不安に思ったり、誇らしく思ったりする。どっちが良いってもんでもなくて、ただ、幸せだったらそれで良いんだと思う。  補助輪がない方が曲がりやすい。友達にもばかにされない。シャラシャラ云わない。  自分の感覚として手に入れたものは失われない。成長の感覚。誇らしい感覚。烏合する感覚。 ***  少年は補助輪を置く。誇らしい気持ちと、うれしい感触と、かりそめの自由を手に入れたのだ。その自転車で、どこまでも行くのだろう。

一人

一人で生きていても楽しくはないだろう。 誰も信じることができないなんて、つらすぎる。 よすがにする人がないなんて、悲しすぎる。 誰にも相談することなく、正しさに到着することはない。 自分が正しいと思った瞬間に、何かが瓦解する。 人の担保なしに、正しさは保たれ得ない。 独りよがりでは、思考は停滞する。 自分の考えの癖を超えることはできない。 人がいるから、その言葉や行動を正すことができる。 人は一人で生きていくことはできない。少なくとも健やかにはいられない。

天馬と老人

 馬が空を駆ける。雷が鳴っている。雲が退いていく。宙が割れる。馬に羽はなく、その足は空を蹴っていく。老人が乗っている。ずんずん進む。私にはそれがスローモーションのように感じられる。雷の音が時間を示す。ゆっくりと、天馬になっていく。  空は紅く、海は緑。老人が立ったまま浮いていて、こっちを見ている。雲がびゅんびゅん過ぎ去る。時が加速していく。  オリオンはあっという間に地に沈み、月は廻る。流星を見逃すまいと目を凝らすが、そこには何も見えず。空は割れ、風が強く吹いている。  老人が何かを怒鳴りながら、スーッと近づいてくる。途端に不安になる。50m手前で老人は消え、次の瞬間に目の前に居る。何か喋っている。  そこで目が覚めた。

人生で印象的な食事

 これを読んでいるあなたは、今までにとった食事の中で一番印象に残っているものは何か、という質問に答えることができるだろうか。  多くの人が一日に何回か食事をする。それが当たり前になっていて、それを特別なものにするということは多くはないかもしれない。印象に残った食事には何か特別なことを特別な人としているものかもしれない。  私の印象的な食事はいつもとそんなに変わらなかった。食べる相手も、食べるものも、いつもと同じ。特別という感じではない。ただ一つ違うことは、その時に話していた内容なのだと思う。その内容だって特別というわけではない。なんでもない、ありきたりなことかもしれなかった。それでも、私の人生はその瞬間から変わってしまった。私はその食事での会話によって、あることに気がついたのだ。私の人生にとって大事な、とても大事な、あることに。  それはどのように生きていくべきだろうか、ということが腑に落ちた瞬間だった。会話の内容は明日の天気だったと思う。そしてその日の夜に降る流星群の話題だった。明日は雨だから、流星群は見れないかもねー、という相方の言葉にハッとする。明日が雨だとしても、今日流星群は見られるかもしれず、いやそれだけでなく、明日が雨であるかどうかさえも未確認のことだ。明日が雨だからといって、今日の夜が晴れないと、誰が決めたろう。  先行きを決めるのは、他人ではなく、自分なのである。あるいはそうならずを得ず、抗えないこともある。決められないことは受け入れるしかないが、流星群が降らないだろう、と今晩窓の外さえも見ないのは他ならぬ私である。そう決めるのは私である。流星群が起こるかもしれないのに! 人にどんなことを言われようが、自分で決めてそうするべきだ。流され、有耶無耶のうちにそうするべきでない。そのことは大きな違いである。予想は予想である。そして、それは人の言ったことだ。ちらっとでも自分で外を見ればそれでわかること。それをしないことが流星群を起こしていないということなのだ。そこにあったとしても。それでは私にとって流星群が存在していないことになってしまう。  人任せにしてしまっていることのなんと多いことか。なんだって一人でできるわけではない。そんなことはわかっている。だから人に依存し、頼りにしたりする。その対価としてお金を支払ったりする。だけど。どのくらいそれが確

夕立

 今日は外に出るのが億劫だ。低気圧で頭も痛いし、傘さして歩いてもどこかしら濡れるだろう。空から水が降ってくるなんて、とてもシュールだと思うんだが、みんな普通に受け入れている。小さい頃からこんな日に外を歩くのが厭だった。世界は異様になっているというのにみんな平然として出かけたり、人によっては天の恵みだという。私にとっては不運な日でしかなかった。ザーザー音が鳴っている。降り始めに例の匂いがした。この匂いは好きだ。だけど天気そのものは好きじゃない。濡れることがとにかく厭だ。その後拭いをすることが嫌なのかもしれない。この天気を楽しみになるように工夫したこともあった。見栄えの良い長靴を買ったり、傘をビニールなんてやめてちょっと良いものを買ったり。そうやって出費しても、すぐに飽きてしまう。そんなことでは免れないほど、水の脅威はすごいのだ。こんな天気は化粧だって変わる。濡れることを前提として化粧する。この天気に関するなにもかもが、面倒臭い。  天気なんて憎んだって仕方ないのだが。ただただ、過ぎ去るのを待つだけ。今日は何もできないし、するべきこともない。庭の草木に水をやらなくて済むくらいだ。天の恵みなんて私にはいらない。天に右往左往しない身体が欲しい。  水が貯まれば助かる人もあるだろう。だけど、私の個人的な意見を言わせていただければ、誠に勝手なのだが、それなしになんとかならないのだろうか。やはり不都合がありそうだ。降らない日が好きかというとそんなことはなくて、つまり天気に好みなんてなくて、ただただ、天から降ってくるこの水が鬱陶しい。ぽつぽつと降り注ぐ。私の元に。そんなことしたって、いいことなんてそんなないのに。いや、私にはないのに。本当に自然は理不尽だ。でもそういうものなんだ。なんだか愚痴ばかりになってしまった。  こんな天気だって楽しくできない自分が憎い。それは私が悪いのだ。解決しない問題を抱えすぎている。余裕をなくしている自分が、そんな気分にさせているのだろう。そうやって天気を媒介にして自分を知ることができる。私はダメなのだ。天気を愚痴るようでは。そういうことを一個ずつ乗り越えて、きっとこの先があるだろう。  天気なんて御構い無しだ。構うもんか。濡れてやれ。行ってやれ。ずぶ濡れで行くがいい。この夏空だ、気持ちが良いだろう。行くがいい。そんくらいの方がいいのだろう、私に

人と生きる、人として生きる

 あるところに住んでる、ある人。その人は誰とも関わることもなく過ごしてる。そうやって生きることを常としている。そうすることが当たり前で、その人はそうしていたいのだ。人と関わることは、人にどう思われるか、を気にしなければ成り立たない。そうすることを、その人は拒んでいるのかもしれない。本当のところはわからない。  人と関わることなしに暮らすということは、誰の手助けも受けず、頼りにもせず、一人の力で暮らすということだ。自分の力で住むところをこしらえ、食べるものを用意し、生きて死ぬまでの責任を持つということだ。  人は一人でいるようにできているのだろうか。社会的な動物であると、誰が決めたろう。一人で暮らすことが不可能であると、誰が決めたろう。人と暮らした方が楽というだけで、一人で暮らすことは苦でもないかもしれないし、してはいけないことでもないはずだ。その人の土地に、その人が家を建て、食料を調達し、暮らす。  誰にも迷惑をかけないのなら、それでいいのだろうか。何かを得るということを自分一人の責任に於いてやるのであれば、それでいいのだろうか。  一人で暮らす。その人は自分がどんな生活をし、どんな格好をしているかに注意を払わない。しかし、それは生きていくための必要条件を満たしている。理にかなってさえいれば、それで良い。暮らしやすければ、それで良いのだ。  この人は何のために生きているのだろう。ただ生きるために生きているのだろうか。人と暮らすということはどういうことなのだろう。人に支えられ、人の役に立つということはどういうことなのだろう。自分のためだけに生きる人、自分の責任においてしか生きない人を、人間と呼称していいのだろうか。  どんなに人に絶望しようとも、一人になったとしたら、人とは呼べないような気がする。動物とほとんど変わらない。知恵を持ってはいるけれど、人と関わることを拒むのならば、人ではない気がする。  人と一緒に過ごしている人間のような人がたくさんいる。人と触れ合うことで人は人になるのかもしれない。社会の中で生きるから、人は人と呼べるのではないか。そこで生きるから、人の中で生きるから、人として生きられるのではないか。  愛があるから、人生は愉しい。比較するから成長するのだろう。人との関わりの中で人は生きている。一人で生きることなんて、多分わたしには、でき

あなたがある日突然、喋ることができなくなったとしたら、どうだろう。

 あなたがある日突然、喋ることができなくなったとしたら、どうだろう。そんなこと起こり得ないだろうということが、人生には起こるものだ。あなたは仕事をやめるだろうか。人付き合いもやめてしまうだろうか。喋るという行為の負っていることはあまりに多すぎる。そしてそれは、失われてみないとわからないことだ。ちょっと今晩は想像してみてほしい。喋れないということのハンデをあなたが負うとしたら。  あなたはあらゆる伝達を、口ではなく、筆記によってすることになる。いちいち書く。そして、いちいち読んでもらう。書く時間によって伝える内容のハードルは上がってしまう。わざわざ書いてそんなことか感は強くなる。書くのにも、読むのにも時間は使われる。いちいち間が生まれる。喋ることで埋めることのできない間である。  あなたが喋れないと知ると、相手は耳も聞こえないと思うだろう。それは自然なことである。しかし、あなたの耳は普通に機能する。それを伝える手段はやはり書くことだけである。  喋れないというだけで、人はあなたに哀れみを感じるだろう。可哀想、障害者だ、という目を向けられることになる。そしてその哀れみはあなたに直裁に伝わる。  初対面の人には説明がつきづらいものだ。「そういう人」として接せられる。深いコミュニケーションの取りようがない。必然的にうわべだけの関係になる。うわべだけと言っても筆談で天気の話をする人はおそらくいないだろう。書くことは、わざわざ感が強すぎるのだ。わざわざ書いて雑談かい! という空気になる。必要な情報の交換に終始する。  どうしても仲良くなりたい人がもしいたなら、僕だって気を惹くようなことをしていたかもしれない。しかし、私が緘黙であった9年間、そんな人はけっきょく一人も現れなかった。  無意識に人と接することをセーブしてしまう。仲良くならないようにしてしまう。たぶんきっとおそらく、自分は理解されないであろうという圧倒的予感。私”なんか”と仲良くする人は現れないであろうという感覚。そうして必然的に閉じていくだろう。やりどころのない何らかの感情が湧いてくる。なぜ自分なのか。落ち込んだりもするかもしれない。  緘黙は病気である。そして、誰にでもではないけれど、起こる可能性はあるかもしれない。当たり前にあることが、当たり前でなくなる日。そんなことが、あるかもしれない。思えば、

男と女

 ちょうど昼過ぎ。バスに乗っていると、男が駆けて行くのが見えた。その先には女がいた。男は必死の形相で、女に何か伝えているように見えた。しかし、何を言っているのかここからではわからない。バスはそれまでと同じように過ぎ去る。わたしは振り向いて、男と女の行方を追ったが、男が女に向かって頭を下げているところまでしか見えなかった。その後のことは、わからない。  男は何かを詫びていたのかもしれないし、何かを頼んでいたのかもしれない。結婚を申し込んでいたのかもしれない。とにかく、遠目から見てもわかる形相だった。駆けて行く感じ、頭の下げ方、何かあったに違いない。もしかしたら、男と女の運命を変えるやもしれない、何かが。  あるいは、考えられること。すでに付き合っている二人が、男の方から別れ話を切り出したのかもしれない。男が浮気をしていたのかもしれない。ひょっとすると、女には命が宿っていて堕胎を迫っていたのかもしれない。  そんな大げさでなく、ただバイトの連れ同士が明日のバイト変わってくんねぇか、と頼んでいただけかも。ゴミ捨ててきてくれ、と言っただけだったかもしれない。  この間はありがとう、と何かのお礼を言ったのかもしれない。  頭を下げたように見えたのは、足元にゴミがあったのを見つけたからで、それを拾おうとしたに過ぎないかもしれない。男と女は何の関係もないアカの他人だったかもしれない。男はコンタクトレンズを探していたのかもしれないし、女はそれに協力する心優しい他人だったかもしれない。そして、その出会いによって二人の何かが始まったかもしれない。  男と女のドラマツルギーにはいろんな可能性がある。そのどれをとっても、面白いかもしれない、そうでもないかもしれない。些細なことを面白がる人間の方が幸せだ、とぼくは思うわけです。

ここに立っている。

 夢にまでみたことをしようとしているのに、なんの興奮もない。ただ淡々とそれをしているに過ぎない。それがきちんと成立するように、恥ずかしいことをしないように、精緻にやっていく。ここに立っていることを誇らしく思う気持ちもあるけれど、それだけのことをしてきたという自負だってある。つまりそうなって当然だと。ここまで来るのに、それなりの努力と戦略を積み重ね、運と縁に身を任せてきた。そして今ここに立っている。  感慨を感じている暇などなく、ただやるべきことをやっていく。それがここに立っているものの務めであると、本能的にわかっている。ここに来るためにどれほどのことをしてきたのか、きっと人にはわからないだろう。いろんなことを犠牲にしてここまできた。そんなこと、したいことをしたいのだから当然と思うかもしれないが、それができない人は大勢いる。したいことをわからない人だってたくさんいるし、わかっていても誰にでも自分のしたいことをできるというわけでもない。  できる、できないというところに今の私は立っていない。やるのだ。それだけなのだ。自分の力を振り絞って、やり尽くすというだけだ。そのために生きている。そのために犠牲にすることは当然だ。  なぜこんなに頑張れてしまうのか、自分にもよくわからない。人に期待されるからかもしれない。そうでなければ、こんなこと、できないだろう。  というか、できなかった。自分で自分にする期待なんてちっぽけな期待だった。できるはずだ、とは思っていたけれど、実際にやってみると難しかった。向いていないとも思った。でも。ひとり期待してくれる人があったから。  だから私はなんとかやっているのだと思う。身を粉にしても、人生を棒に振っても、だとしても、私は幸せであると思う。自分の能力を活かすことができる。自分の居場所が社会の中にあるということ。その上、人に期待されるということ。そして、それに応えることもできるだろう。  こうして、私は生きていく。死ぬまで生きるのだ。

できない理由を探し続けるひと

「やりたくない人はできない理由を探すよ。やる人は、そんなこと探さないし目にも入らない」 「私、何がやりたいのかわからない」 「やりたいこと、見つかるといいのにね。そんなの、生きていくのに基本的なことじゃない」 「なんていうか、今、生きているだけで精一杯なの。どうしたいこうしたいなんて、言ってられないわ」 「それでも、何か持つべきだ。今日は仕事が終わったらあれをやろうとか、年末は旅行するぞとかさ」 「そうだけど、本当に忙しいのよ。でも、仕事をしたいってわけでもないの」 「何の為に生きてるのかってことなんじゃないの。生きていく為に仕事以外できないならそうするしかないじゃない。でも、それは幸せなのか、ってこと」 「幸せよ、たぶん」 「たぶん? 自分のことなのに? やりたいことにも気が付かずに今を仕方なく生きている人が幸せだとは思えないな」 「人生、ある程度までいくともう一直線なのよ。もう私の人生はほとんど決まってるのよ。このまま誰かと結婚して子供作って老いていくのよ」 「やりたいことがわかっていても、やろうとしない人はいる。人生のある時期にしか、それを叶えられないと思い込んでいることもあるし」 「そういうこと多いわよね。もうエネルギー湧かないし」 「だけど、自分の本当にしたいことするためなら、それをしなければならないなら、何とかなるんじゃないの。本当にやりたいことだったらさ。それ以外をしている暇なんてないんだよ、人の生には」 「わかるけど。私にはどうしたらいいのかわからない。やりたいこともないわ」 「どのくらい、なにかをやろうとしてそう言っているの? 四方八方やり尽くしてそう言っているのか、ただ面倒くさくてそう言って自分を誤魔化しているだけなのか」 「だから、忙しいんだってば」 「そうやって言い訳していればいいさ。君には一生自分のしたいことなんて見つからないし、適当な男とくっついて、男に奉仕して一生を終えるんだろう。それもいいんじゃないの」 「……。」 「時間は取ろうと思わなければ、取れないよ。どんなに暇だとしても、忙しいとしても、そうしたいと思わなければ、時間なんて生まれない。やらない理由を探しているうちはそこには一生たどり着けない。そのことに今すぐ気がつくべきだ。そして行動するべきだ」 「やりたいこと、ないわけじゃないのよ。でも無

どうして僕から離れていくときはそんなに可愛いの

 寝ぼけた君は、こんなことを言ってきた。 「どうして僕から離れていくときはそんなに可愛いの」  恋人を自分のものにしていたい人にとって、少しでもその人から離れることはたぶん、苦痛なんだろう。それも、こんな、かわいくおめかしなんかして自分の元を離れてく、ってことは。出かけた先で何かあるのかもしれない、と不安なのかもしれない。  家を出るときには化粧をするというような当たり前のことだって、寝ぼけた人には通用しない。ただ、めかし込んだ恋人が自分の元を離れていってしまう、という事実だけが、寝ぼけ眼を刺激しているというに過ぎない。 「あら? あなたといるときは可愛くないのかしらん?」 イジワルして言う私。 「そんなことないけど。でも、今の方がステキ」 「あらそう。ありがとう」  いつもステキであって欲しいという気持ちが現れている言葉に、私はなんだか嬉しくなった。なんだか自分を認められたような気がして。一緒に暮らす彼とはもう長い。だから、いろんな面を見せている。それでも私のことを魅力的だと思ってくれているのだ、という感触。そして、私を失うことを恐れてくれているのかもしれない。そんなに深く考えていないかもしれないけれど、というか全然見当違いのことを私は考えているのかもしれない。そんなことを考えてるうちに時間になった。  ただ、離れていくときに可愛くしていく人を不思議に思っているというだけに過ぎないのかもしれない。そこに僕はいないのに、なんでそんなにめかしこむの、と駄々をコネていたのかも。  いや、もっと、素朴な疑問だったのかもしれない。彼の中から化粧をするという社会的行為の概念がすっぽり抜け落ちてしまっている。寝ぼけた人間は厄介で、かわいい。そんなことを言ったことだって、きっと明日には覚えていないだろう。  まぁいいや。いろんな優越感を抱えたまま、私はアパートを出たのだった。

好機を感じるということ

ラジオで偶然かかった曲。 図書館でたまたま見つけた本。 ぶつかった子どもら。 朝日が綺麗だったこと。 ***  いろんなことが日々僕の身に起こるけれど、なにがきっかけでどうなるかなんてわからない。それらのすべてが偶然とは言い切れず、しかしなにかを感じるには信心深すぎる。そういうことを虫の知らせと昔の人は言った。そういうことってあるのかもしれない。なにかが私にメッセージを送ってる、なんて妄想を誦える病気があるけれど、僕はそんなんじゃない、と言っておこう。この世界にはどう考えても目に映るすべてのことがなにかの思し召しとしか思えないことが起こったりするのだ。流れがある。昨日から今日にかけて、そんな日だった。  ラジオにかかった曲を漠然と聞いてた。90sの特集らしい。そこから流れてくる音のなにもかもが懐かしい。過去をあまり振り返る方でもないのだけど、こんな曲が流れたら考えてしまう。曲に張り付いた思い出が鮮やかによみがえる。ふと思い出すことが、今に通じてると気がついた。あの時のことがあったから、今があるんだと。この曲を聴かなかったら、そんな発想にはならなかったろう。あの時の失敗があったから今があるのだ。あの時には間違ったと思っていたけど、そんなこともなかったのかもしれない。  図書館に行くと、いつもは予約した本を受け取ってすぐに帰る。のだけど、今日はなんとなく本棚を眺めていた。そこで見つけた本。なんとなく惹かれた本。手に取ってしまった本。こういうことがあるから、時たま、本棚を眺めたくなる。必要な時に必要なものに目が止まる。半自動にそこにある。求めているものはいつだってそこにあるのに、気がつかないのはこっちなのだ。セレンディピティを鍛える方法があるのなら、知りたいものだ。  道を歩いていると、公園から飛び出してきた子どもらとぶつかってしまった。私もぼーっとしていたし、子どもらも必死に走っていたようだ。「おぉ!」と思う間も無く私が行くはずだった交差点で車が暴走してきた。子どもらと出会わなかったら、私はどうなっていたか、わかりゃあしない。ぼーっとしていても幸運が降ってくることがあるのだ。  朝起きて、大抵は散歩に行く。旭日の出るタイミングを見計らって。季節ごとにタイミングを計って外に出る。今朝はそれがとても綺麗だった。いつになく。こんな日は一年に一度だってお目にか

ちいさい頃

「じいじもご本を読むの?」 「ん? うん、そうだね」 「かめんらいだー?」 「いや、俺は仮面ライダーは読まないな」 「じゃあなにをよんだの」 「俺も小さい頃には本を読んだよ」 「じいじもちいさいころがあったの」 「そうだよ」 「なによんでたの」 「うんと昔のことだから忘れちゃったよ」 「ふーん。ボクがうまれるまえ?」 「そうだね、うんと前。君のパパとママが生まれるより前だよ」 「パパとママにもちいさいころがあったの」 「そうだよ。みんな小さい頃があったんだよ」 「イイモノにも? ワルモノにも?」 「そうだよ」 「かめんらいだーにも?」 「そうだよ」 「じいじはちいさいころなんさいだった?」 「んー、、君は今いくつだ」 「4さいだよ」 「じいじも四歳の頃があったよ」 「かめんらいだー?」 「仮面ライダーはなかったなぁ」 「じゃあなにがあったの」 「ん、いろんなのがあったぞ。なんでもあったぞ」 「みんなちいさいころがあったの? ぜったい?」 「そうだな。小さい頃がない人間はいないんだよ」 「ちいさいころはみんなおなじなの?」 「いや、みんな違うよ。俺の時は俺の時。パパの時はパパの時。君の時は君の時」 「じゃあ、いつがいちばんいいの」 「うーん、それぞれにそれぞれがいいんだよ。どっちがいいってことはないんだよ」 「ふーん。ちいさいころ、たのしかった?」 「そうだなぁ。楽しかったな。でも大人の方が楽しいぞ」 「ふーん。」

月に住むひと

「そろそろ月に帰ろうかしら」 「へ? 君は月から来たのか」 「そうよ? 知らなかったの」 「初耳。もう帰るのか。置いてかないで」 「あなたも来る? けっこう良いところよ」 「じゃあお言葉に甘えて」  その日、初めて彼女の家に行ったのだった。そらには月が輝いてた。そのことには二人とも触れずに、家までの路を黙って歩いた。彼女の家は月みたいだった。宙の月より月であった。 「ここよ」 「月ですね」 「そうよ? 良いでしょ」 「ふーん」 「中入ってくでしょ?」 「じゃあお言葉に甘えて」  今日はデートだった。3回目の。まさか家に行くとは思ってなくて、気の抜いた靴下を履いて来てしまったのが悔やまれる。月の主はお茶を淹れてくれている。あまりじろじろ部屋を見ないようにしようとするも、つい見てしまう。こんな部屋に住んでるんだ。 「素敵なところだね」 「そうでしょ。月っていうだけあるでしょ?」 「うーん、これは紛うことなく月だ」 「ところで。キッスしていいかしら」 「月だもの。いいよ。こっちに来て」  ……。いつの間にか、朝になっていた。月の輝きは失せていた。朝に見える月が青白く薄く見えるように、この家はなんだか違って見えた。夜の輝きをうしなって、でもなおその存在は、確かに在る。この家もひと月に一度くらい隠れてしまうのだろうか。  月に住むのは、ウサギでも蟹でもなく、愛おしいケダモノだった。  彼女とデートすると、彼女は「月に帰るわ」という。その度に僕はついて行って、セックスした。彼女はケダモノになり、僕は獣になった。  月での日々を、ときどき思い出す。この人とずっと一緒にいられたらと思っても、そううまくはいかないものだ。今も『月』はあそこにあるんだろうか。あの眩しい輝きを、ときどき思い出す。あれは、良いものだった。

友への手紙

 君が頑張ってきたことを、僕はほとんど知らないけれど。  君が頑張ってきたことを、君は絶対知っているはず。  君がなにかを賭していたことを、僕はなんとなく知っているけど、うまく君を励ませそうにない。きっとこれからも君にも僕にも困難はあるだろうし、うまくいかないこともあるだろう。自分の思い通りにならないことも、運命に翻弄されることもあるだろう。だけど、自分にできることをできる限りすることでしかないのだと、僕は思うよ。人をコントロールしようったって、大抵はうまくいかないものだし、当てにもならない。とにかく準備を十分にして、自分を追い込んでいくことでしかない。  君のしたいことを、していくがいい。  僕は自分のしたいことをようやくできそうなところまできたさ。これから、自分がどんなもんなのか、やっていくうちにわかるだろう。努力は惜しまないし、僕が気を抜いたら、言ってほしい。僕はすぐに手を抜くから。これまでにない努力ができると、自分を信じている。  拓けるかどうかもわからない。人に認められるかどうかもわからない。食っていけないかもしれない。でも、なんとか生きていかなくてはならない。どんな形だとしても。  いつまでも這いつくばっているわけにもいかないし、いつまでも自由にできるとも限らない。でも、いつまでもそうしていたいと思ってる。それがいつまで適うかはわからないけど、いつか叶うといい。  俺にはなんの野心もないし、野望もないけれど、でも、なんとなく生きているってわけでもない。どこかには向かっているはずで、それは君だって同じだろう。生きている限り、どこかへ向かっているだろう。  自分の望みを叶えた人にも叶えられなかった人にも、お金持ちにも貧乏人にも、友達が多くても少なくても、死は必ず訪れる。必ず。  死ぬ瞬間に、生き切った、と呟いて死ねたらいい。それが一年後か五十年後かはわからないけれど、そういう日は来るのだ。その日までをどう迎えるか、悔いなく迎えられたら本望だ。あー、幸せだった、と死にたいものだ。  君がしてきたことを、君の全てを、僕は知っているわけじゃないけれど。  僕は君のことを、少しは知っているはず。  君も僕のことを、少しは知っているはず。  だから。  僕が生きる依り代の一部であってほしい。君がいるから、僕はやっていける。君を裏切らないため