月に住むひと

「そろそろ月に帰ろうかしら」
「へ? 君は月から来たのか」
「そうよ? 知らなかったの」
「初耳。もう帰るのか。置いてかないで」
「あなたも来る? けっこう良いところよ」
「じゃあお言葉に甘えて」
 その日、初めて彼女の家に行ったのだった。そらには月が輝いてた。そのことには二人とも触れずに、家までの路を黙って歩いた。彼女の家は月みたいだった。宙の月より月であった。
「ここよ」
「月ですね」
「そうよ? 良いでしょ」
「ふーん」
「中入ってくでしょ?」
「じゃあお言葉に甘えて」
 今日はデートだった。3回目の。まさか家に行くとは思ってなくて、気の抜いた靴下を履いて来てしまったのが悔やまれる。月の主はお茶を淹れてくれている。あまりじろじろ部屋を見ないようにしようとするも、つい見てしまう。こんな部屋に住んでるんだ。
「素敵なところだね」
「そうでしょ。月っていうだけあるでしょ?」
「うーん、これは紛うことなく月だ」
「ところで。キッスしていいかしら」
「月だもの。いいよ。こっちに来て」
 ……。いつの間にか、朝になっていた。月の輝きは失せていた。朝に見える月が青白く薄く見えるように、この家はなんだか違って見えた。夜の輝きをうしなって、でもなおその存在は、確かに在る。この家もひと月に一度くらい隠れてしまうのだろうか。
 月に住むのは、ウサギでも蟹でもなく、愛おしいケダモノだった。
 彼女とデートすると、彼女は「月に帰るわ」という。その度に僕はついて行って、セックスした。彼女はケダモノになり、僕は獣になった。
 月での日々を、ときどき思い出す。この人とずっと一緒にいられたらと思っても、そううまくはいかないものだ。今も『月』はあそこにあるんだろうか。あの眩しい輝きを、ときどき思い出す。あれは、良いものだった。

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