僕が空を見上げるわけ

 どんな生活をしていようとも、きっとみんな毎日を同じように送ってる。病院でぼーっとするような日々でも、誰かのため精を出しても。人は日がなほとんどを習慣で過ごしてる。毎日を新しい場、新しい人、新しい言葉、新しい仕草、で過ごす人ってのは滅多にいない。それに対して飽きるとか嫌気がさしてしまうとかはまた別の話だけど。でも、多くの人が毎日を同じようにして過ごしてる。たまにあるはずの例外をみんな求めているのかもしれない。
 でも、僕はなんとなく空を見上げてしまう。この宇宙の広さからしたら、僕がいま持っているこの気持ちなんてどうでもいいことかもしれない。それでも僕は『そうやって』生きていく。だって、そうでしか生きることができないのだから。
 でもね。ときどきにでも宙を見上げると、心がスッとする。全てを投げ出したっていいんじゃないかと思える。有り金叩いて、仕事も全部キャンセルして、どっかに旅立ったっていいんじゃないか。そうすることが、自分にはできるんじゃないか、と。
 そんなことを思わないわけじゃない。ただ僕は空を見上げてる。空には雲が在って、風が吹いている。その雲の向こうには宙があって、途方もない空間が広がっている。そこでは僕にはなんの肩書きもなく、仕事だって関係ない。ただ一人の地球人でしかない。いや地球人ですらないかもしれない。ただ動物。ただ生命体。いろいろなしがらみなんて、そこには関係ないのだ。ただ在るだけ。それは、雲と風と同じ。
 そんなことをぜんぜん思わないわけじゃない。ただ在ることを確認したら、それでおしまい。虚空をちょっとだけ眺めて、僕はまた元に戻る。いえには家族がいて僕の帰りを待っている。元の生活。元の社会。
 ときどきそういうものを意識の上で飛び越えて、僕は成り立っているのかもしれない。つまり、それさえも習慣のひとつなのである。そうやって、ときどき行ったり来たりしながら、また日常に戻っていく。
 そうすることが当たり前だから。そうすることが正しいことだから。そうすることが、誰も悲しまないことだから。
 今日も独り空を見上げる。ありふれた毎日を飛び越えて。僕は空に飛び立つ。空を想う。

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