すべての逸脱した人たちへ

 私は自分のルールを持ち出しすぎなのかも知れない。それが過剰になると、きっと良くないことが起きるのだろう。そのことは社会に認められるということと関連している。自分だけの世界で生きている時間が私には長すぎた。過ぎてしまった時間を悔いても仕方ないし、これからそういうものを身につけていけばいいはずなのだけど、どうするべきなのかわからないでいる。
 自分だけのルールが社会に適応しているかといったら、たぶんその多くはそんなことはなくて、逸脱していると思った方がいいのだろう。自分だけのルールが素晴らしいものである可能性はたぶん低くて、なぜなら何も考えていないから。社会のルールを鑑みてそう決めたというわけでもなく、ただ自分の都合の良いように決めただけのルールなんて、何の役にも立たない。ただ自分が自分にとってのみ、まともであるというだけなのだ。それは社会とってのまともさに適っているというわけではない。
 いかに社会と自分について考えるか、なのだと思う。どれだけ自分を貫こうとも、社会の中に収まっているのならそれでいいのだということ。見た目の問題だけでなくて、精神とか志のことを私は言っている。
 いかにまともであるか、という昨日の話は、ルールの適用にかかっているのだということに気がついたというわけ。どんなルールを持ち出して、それに応えるか、ということである。社会の端にいたとしても、社会のルールと自分のルールが適応していれば何の問題もない。自分のやりたいようにやるのは結構だけど、社会のルールを度外視していたのでは、社会の一員とは言えない。
 『志を持たないものが、志を持つものの言い成りになるのは当たり前』と某アニメスタジオのPは言っているみたいだけど、最近は志について考えてる。このことは自分なりにやる、ということと関係があると思う。志をいかに持つのか、ということ。自分なりに無意味にそれを持ったところで、空回りすることは目に見えている。そうやって増長し続けて、私はずっと失敗してきたのだ。問題は『志』というルールをどう設定するか、ということだ。どうそれを考えるか、ということ。闇雲に持っても仕方ないということ。今回は戦略的に行くぞ、と思ってる。ただ頑張るだけではダメなのだ。
 エナジーをいかに燃やすかということ。どのように、何に対して燃やすかということ。これをきちんと戦略できたら、きっと人生はうまく行く。いつも誇りを持てるであろう。今の私には、こうしたらうまくいかない、ということしかわかっていない。どうしたらうまくいくのだろう、って疑問に思ってる。きっと正攻法なんてない。しかし闇雲にやっても仕方ない。念密に達成していく。どうなりたいのか、どこに行きたいのか、そのためには何が必要か、いま何ができるのか、自分を審議し続けること。そのことから始まる。
 自分独自のルールで生きることは否定しないけど、それだけではやはりダメだ。自分の都合しか考えていないのであれば、きっと適応できない。人はもっといろんなことを考えて生きてる。だからまともでいられる。私はそれを少し逸脱しつつある。どう逸脱するかをうまくコントロールできたなら、私は少しはまともになれるかもしれない。そうすることが、生きる道である。特殊には常に才能が伴わなくてはならない。考えることは必須である。頭を働かせろ。運を導け。うまく生きろ。そうすることしかない。

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