求められている自分こそ

 何かをすることは、生きている限り、するのだろう。ただ無目的に生きることもできるのだろうが、今は人のために生きることができたらいいのにと思っている。そうすることが自分の力を一番発揮できるはずだと思うからだ。ひいては自分の能力を一番伸ばす方法だからだ。
 私は自分のためにずっと生きてきたし、そう生きることを選ばざるを得なかった。人のために生きるって、カッコつけてる感じになってしまうけど、自分の力を出すためには、そうすることが一番だと本当に思ってる。自分のために自分の力を発揮し尽くすことは難しい。どこかで手を抜いているのだと思う。
 文章を書くのも、いつも自分のために書いてきたのだけど、それを外に向けて書いていたら、自分でも少しはましかもしれないと思えるようになった。少し世界が開けたのだ。ずっと閉じた系で書いてきたから、とりあえずそのことは新鮮だった。どういう文章を書くことが自分にとっても特定の誰かにとっても良いものなのだろうか、って考えると、少しは普遍性を持てるかもしれないと思う。
 普遍性を持った文章をずっと書きたいと思っていたけれど、うまくいかなかった。自分にしか当てはまらないことは、誰にでも当てはまることじゃない。読む人の顔が思い浮かぶってわけでもないけど、今はそれよりは少しは開いているのかなと思う。それは実社会での自分の開き方とも呼応しているように思う。
 人を認めることができるようになったら、文章にも少しは変化があるだろうと。自分の人の見方が文章に反映されるということは容易に想像できる。自分が卑屈であれば、文章も卑屈だろう。自分が開いていれば、文章も開くのではないか。
 人に求められる自分が本当の自分なのだとしたら、僕は求められているように生きるのが良いだろう。だけど、今は、誰からも、何も、求められていない。家族にほんの少し認められているという程度。この範囲が広がっていったら良いのになぁと思うし、そうする努力をこれからも続けていくつもり。
 その範囲はきっと仕事によって拡がるし、努力次第だろうって感じはする。自分が何をできる人間なのかをきちんと明確にする必要があるし、それを情熱を持って伝えられるようにならないといけない。
 今自分の前に立ちはだかっている壁はとても厚い。負けたくない。負ってきたものが重すぎる。一歩いっぽだ。進んでいれば、どこかへ辿り着くだろう。

コメント

このブログの人気の投稿

寝付けない私に、母が話してくれたこと

どう思われてもいいという思考

つっかえたものを取ること

人とひとが出会うことの表現の可能性を知りたい

言葉の力を思考/施行する

正しいからしても良いと思うと、間違っていることに気がつかない

補助輪