きょうの神様

 外に出ると木枯らし。強い風が吹くと、いつも誰かが通ったかのように感じてる。そこにはきっといるのだろう、「きょうの神様」が。
 父は入院してからというもの、冗談を言うことが多くなった。それがこの閉鎖空間でうまくやっていくための秘訣なのかもしれない。あるいは本当に気が触れてしまったか。はたまたあるいは寂しいのかもしれない。看護師さんを笑わせている父を見ると和む。家では滅多に冗談なんていう人間ではない。それが人が変わったように冗談を連発してくる。本人が笑うことも多い。一見明るくように見えて良いように思えるけれど、やはり、病院生活はつらいだろう。昨晩、血圧がとても高かったんだ、と言う父は、とても不安そうだった。でも彼は命を落としたわけじゃない。「きょうの神様」がそうはしなかったのだ。明日はどうなっているかはわからない。今日より良くなっているかもしれないし、明後日はもっと悪くなっているかもしれない。いい日になるといい。
 家に父がいない日が続く。家はとても静かで、物音がするたびにそれが母が起こしたものだと見当がつく。父がいる時と変わらない生活をしているようで、そこかしこに違いがあるはずなのだ。父のいなくなった居間の机の上を整理し、父の和室を二人で片付ける。父がいないからといって変わったことは何もないとはとても言えない。いつも居た人間が一人いないというだけで、こんなにも心情が変わるものかと驚いている。それは、それが父だからだ。父のしていたことを一つひとつ思い出しながら、いろんなことに不便が出ないように気を使っている。もちろん、入院している父自身に対しても。いろんなことに気を配ることは、楽しいことでもあり、苦しいことでもある。気を詰めないようやっているけれど、不便を被るのは自分であり、家族であり、父であり母である。気を配り損ねて、今日は少し大変な思いをした。でも、大事には至らなかった。「きょうの神様」がここにもいた。いい日になるといい。
 歩いていると、幼稚園児が母親と共にこちらに歩いてきた。正確には子どもは走っていて、母親は歩いている。目の端で眺めつつ歩いていると、子どもが転んだ。でも、子どもは泣かなかった。母親も特に騒がず、膝をはらって、そのまますたすた行ってしまった。子どもはまた元気に走って行った。「きょうの神様」が癇癪を閉じたのかもしれない。あの児は幼稚園で元気に遊ぶのだろう。いい日になるといい。
 今日も眠る。明日もきっと「きょうの神様」がいるだろう。いい日になるといい。

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