まともであること

 まともであることについて今日はうっすら考えていた。何を持ってまともというかっていうのは難しいことだけど、まともな人なんているんだろうか、とか、その度合いがあるのかもしれない、とか、まぁ、いろいろある。
 まともでなくてはいけないということもないと思うけれど、度が過ぎるのは困りもの。その度をどういう風に解釈するのか、あるいは具体的にどういう点でまともでないかというのが問題になると思う。それをどう自分で感知して、どう暮らしてくか、ということでもある。
 社会の中で暮らしていくことについて、まともであるということはどういうことなんだろうって考えても、たぶん答えは出ない。自分は、自分だけはまともであると思いたいのが人間だ。でも、どこかで気がつくのだ。きっと。自分はまともではないかもしれないと。その時に見て見ぬ振りをするのか、しっかりと受け止めるのか、というだけなのではないか。まともでないというエピソードが大仰なものであったら受け止めやすいし、簡単なものだったら流されてしまうのかもしれない。多くの場合、一人では気がつきにくいことなんじゃないか。一人でいるということの怖さはそういうところにあると思う。つまり独りよがりになりがちだということだ。
 みんな自分はまともであると思いたいものだ。一歩も道を外していないと思いたいものだ。まともでない自分なんて存在していないかのように振る舞ってしまう。まともでないことを受け入れるのは人によっては難しい。
 私はまともでありたい。きっと特をしたいし、いい目にあいたいのだろう。少しでもまともでありたいと思っていたし、まともであるとも思っていた。御多分に洩れず、私は少しもまともではなかった。小さい頃からのエピソードを思い返しても、難しかったな、と思う。それでもそれなりに人に好かれたり、好いたりできたのだから、まぁ良かったのかもしれない。
 まともであろうとはしていると思う。それは自分の思うまともである。社会の思うまともとは違うのかもしれない。そこにきっとズレがある。生きていけるからといってまともとは言えないだろう。半身不随でも一応生きている。でも、まともではないかもしれない。まともに生きることの難しさ。まともを考える難しさ。認知する難しさ。たぶんこの考えはどこまでも尽きない。完璧な人間なんていないからだ。
 まともな人間なんていない。でも、みんなどこかにまともさを求めている。学歴、職歴、配偶者、子供の有無。みんな、まともであることを示そうとしている。まともであることを目指すことが唯一の解であるかのように感じてしまう。きっと普通はまともであろうとする。その方が生きやすいからだ。そういう風に社会ができているからだ。だから当たり前のようにまともであることを目指す。
 私はまともであれそうもない。だからと言って生きないというわけでもない。生きるだろう。うまく生きることができないことの総体をまともでないというのだろう。格段に変というわけでもなく、しかしどこか変。それはきっと感覚だったり持念だったりいろんなことがズレているのだろう。私みたいな人間が、「まとも」に生きることができる場を、もっと見つけやすくなったら、良いのにと思う。
 考え続けるしかない。

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