人生で印象的な食事

 これを読んでいるあなたは、今までにとった食事の中で一番印象に残っているものは何か、という質問に答えることができるだろうか。
 多くの人が一日に何回か食事をする。それが当たり前になっていて、それを特別なものにするということは多くはないかもしれない。印象に残った食事には何か特別なことを特別な人としているものかもしれない。
 私の印象的な食事はいつもとそんなに変わらなかった。食べる相手も、食べるものも、いつもと同じ。特別という感じではない。ただ一つ違うことは、その時に話していた内容なのだと思う。その内容だって特別というわけではない。なんでもない、ありきたりなことかもしれなかった。それでも、私の人生はその瞬間から変わってしまった。私はその食事での会話によって、あることに気がついたのだ。私の人生にとって大事な、とても大事な、あることに。
 それはどのように生きていくべきだろうか、ということが腑に落ちた瞬間だった。会話の内容は明日の天気だったと思う。そしてその日の夜に降る流星群の話題だった。明日は雨だから、流星群は見れないかもねー、という相方の言葉にハッとする。明日が雨だとしても、今日流星群は見られるかもしれず、いやそれだけでなく、明日が雨であるかどうかさえも未確認のことだ。明日が雨だからといって、今日の夜が晴れないと、誰が決めたろう。
 先行きを決めるのは、他人ではなく、自分なのである。あるいはそうならずを得ず、抗えないこともある。決められないことは受け入れるしかないが、流星群が降らないだろう、と今晩窓の外さえも見ないのは他ならぬ私である。そう決めるのは私である。流星群が起こるかもしれないのに! 人にどんなことを言われようが、自分で決めてそうするべきだ。流され、有耶無耶のうちにそうするべきでない。そのことは大きな違いである。予想は予想である。そして、それは人の言ったことだ。ちらっとでも自分で外を見ればそれでわかること。それをしないことが流星群を起こしていないということなのだ。そこにあったとしても。それでは私にとって流星群が存在していないことになってしまう。
 人任せにしてしまっていることのなんと多いことか。なんだって一人でできるわけではない。そんなことはわかっている。だから人に依存し、頼りにしたりする。その対価としてお金を支払ったりする。だけど。どのくらいそれが確からしいのか、判断する根拠はそこにあるのだろうか。どのくらい私はそれがわかってその判断を人に任せているだろう。自分でできることだってあるのかもしれない。人間の習慣として、そうしてしまっていることはないだろうか。そうすることが当たり前となっていることにこそ、「何か」は潜んでいるかもしれない。そういうことにその食事で私は気がついたのだった。
 その食事が、今のところ、私の印象に残っている食事である。

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