諦観と奮起

 諦めることもあるし、奮起することもある。毎日淡々と生きているけど、だからと言って、諦めているとも、奮起しているとも言えない。やることやるだけで一日は過ぎていく。楽しみも、悔しみも、いろんな感情を日々感じているけれど、これが、人生というものなのか、甘んじて受けなくてはならないのかと、ときどき絶望する。絶望しているだけマシなのかもしれない。それについての、諦観であり、奮起なのだと思う。
 自分がどうなりたいのか、なにも描けないということもあるだろう。描く余地がないとも言えるし、そういう能力がないのかもしれない。つまり、自分のしたいことを達する能力である。それはエナジーとも言えるし、鍛錬でもある。
 なにが動かせて変えられて、なにがそうではないのか。自分の負っているもの外せないことやめられないこと、そして能力を持ってできること、運や縁が必要なこと、お金があれば解決すること、そういうことの線引きをできていない。整理されていない。
 なにができて、なにができないか、これを判断することは大事なことだ。どうにもならないことはあるし、どうにかなることだってあるかもしれない。
 日々がそれなりに楽しければいい、という考えもある。先を見つめる生き方もある。もっと先を想像する人もある。それらをどう受け入れるかなのだと思う。運を天に任せることはあまりに簡単で安易で、諦めることさえすれば楽になるのだろう。しかし鍛錬なくして明日はない。
 『生きている』ということの定義をし直す。ただ息ているのではなく、誇り高く生きるのだ。

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