好きという広がり

 どうやって人は物やヒトを好きになるのか、僕にはわからない。でも、なんとなく好きだとかウマが合うということあるし、相手が自分のことを好きだから自分もなんとなく好きになってしまうということもあるかもしれない。それが本当の自分の気持ちなのかどうかは置いておいてさ。好きという言葉ってけっこう曖昧なのかな、と思う。「好き」という気持ちで人と繋がることについて考えたい。
 興味を持っているという事と、好きというのはちょっと違うのかな。好意を持っていなくても、興味があるということはあるのだろう。なんとなく気になってしまうとか、無意識に好きということもあるかもしれない。興味・関心がなければ始まらないけど、つまり、興味のない好きというのはちょっと考えにくい。そして、興味があるけど嫌いということもありそう。興味という言葉にはプラスもマイナスもあるのではないか。どっちに振れるかで、好きと嫌いに別れるのかもしれない。好きの反対の言葉は嫌いではなくて、無関心だ。
 無関心のものは目にも映らないし、その人にとっては存在すらしていない。嫌いなものは好きに反転する可能性があるかもしれないし、好きなものを嫌いになるということだってあるだろう。興味のないものに興味を持つメカニズムは僕にはわからない。きっと何かのきっかけでそうなるんだろう。
 自分を拡げてくことの楽しさってある。ずっと同じものに興味を持ったままの人もあれば、常に何かが変化することを求める人もある。でも個人的には、何にも興味を持たない人、何も好きならない人がいるとして、なにが楽しいんだろうと思う。
 「好き」について、何かの答えとか結論に達するのはなんだか危ういな、と思う。でも何かを好きになることは心地が良いことだし、人が何かを好きであるということを知るのだって、それだけで興味が湧くことかもしれないと個人的には思う。
 興味のあり方こそがその人の個性だと言えるかもしれない。視点をどう持つかということ。どう面白がるか、ということ。負の感情で人と繋がりたいとは普通は思わないと思う、というか私は御免だ。好きで繋がっていたい。だからいろんな人の好きな気持ちを知りたい。
 ただ好きなのだ、というだけじゃなくて、どう好きなのかを言葉にすることは、私にとって難しいことだ。それだけで私のお底が知れてしまう気がする。言語能力の乏しい私にとっては、人をいい感じで褒めるとか、自分のフェチズムを表明するとか、感じ入ったことを表現するのは、なんだか慣れないし難しく感じてる。
 それに歯止めをかけている何かがあるのかもしれない。そもそも自分のハートを表現するということは少ない。こういうところが好きなんだと、些細なことでも自分の心の機微を知ることは、とても応用の効くこと。ここが好きなんだ! ということこそが表現だと言えるのかも。それこそが実は人の知りたいことなのかも知れない。これは言わなくては気が済まないというような衝動を、私は抱えていない。いつも情報の説明に終始していて、自分のフェチをネットに晒すことをしてこなかった。できなかった。その人の物事の好きに成り方こそが、人と人をつなぐ線なのかも知れない。まず、何かが好きで、そしてその好きのあり方、視点。共通のことが多く豊かになるほど、親近感は増していくのだろう。
 表現のなにが肝心なのかって、情報を正しく伝えることも大事だと思うけれど、人の興味を拡げていくきっかけになることの方がずっと大事なのではないか。こんな面白がり方があるのか! こういうところが美しいのか! っていう広がりを、自分に期待している。そうやって言語化して、自分だって知りたいのだと思う。

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