やきもき

 そうしようと思いもしなければ、そうできないことのやきもきを味わうことなんてない。このやきもきが、今の自分を支えているし、生きているって心地を味あわせてくれる。このやきもきが、私を前に押し進めてくれる。
 喋ろうとしなかった頃、コミュニケーションに於けるやきもきを感じることはなかった。ただ自分の言いたいことを筆談して、それが伝わったらそれでおしまい。最初から言いたいことを言うことを諦めていた。そして、人に言われることについても、そんなに深く考えていなかったように思う。ただ言われたことを受け取る。言われたことに対して思うことも、対して深く受け止めていなかったように思う。だから人に何言われても、そんなに傷つかなかったし、くよくよ考えることもなかった。あぁすればよかったとかそういうこともなかった。コミュニケーションそのものを諦めている節があったから、伝わればいいや、伝わらなければ仕方ないと考えていた。コミュニケーションすることで湧いてくる感情でさえも否定していたように思う。
 何かをしようというとき、人は逡巡する。できるだろうか。どうしたらできるだろうか。どのようにするのが良いだろうか。他の方法はないだろうか。そして、自分は何をしたいのだろうか、と。そういう逡巡──やきもき──を最近はつとに感じるようになった。焦燥といってもいいかもしれない。
 そういう焚き付けが自分の中に湧いてくる。やらなくては、気が済まない。時間がないと思っている。人よりも何周も遅れてしまった、と思っているし、もうどうしようもないのかもしれない。
 自分にとっての幸せをいかに追求していくか、ということなのだ、人生は、と思い詰めれば、少しは楽になるのだけど、社会的に、人間的に、といろんなことを考えると、いろんなことが難しい。でも、それでも幸せになるだろうともどっかで思っているし、今、幸せかもしれないとも思っている。そして、もっと幸せはあるだろうとも。
 逡巡、やきもき、焦燥、なんでもいいけど、自分を焚きつける何かをいつもそばに置いておきたい。それでこそ私は成長することができるだろう。生きていると思えるのだろう。それは、喋れるようになってから獲得したもの。この焦燥に駆られて、私は、歩き出す。ときどき、休みながらでも、一歩一歩進んでいける。

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