しっかりしてることを示す必要なんてないはず

 何事も考えすぎなのではないか。かと言って、それで疲れていると言うわけでもない。隙がないかもしれない。余裕がないかもしれない。なんでも完璧にしようとしてしまう。両親と同居しているが、彼らの手の抜き方には時々考えさせられる。良い感じで締めて、良い感じで抜いている。抜きどころを分かっているという感じ。わたしはいろんなことを頑張りすぎて、余裕をなくしがちである。しなくてもいいことをしてしまっているし、しなければいけないことにリソースを集中できずにいる。
 正しく考えたいと常々思っている気がする。そして、しっかりしていなくてはならないとも思っていると思う。しかし、しっかり考えなくてはいけない場面、正しく考えなくてはいけない場面でそうはできていないのだ。それが実情である。冷静になれ、と呟くけれど、そう言っている時点ではもう遅くて、じっくり考えるべき場面でそうできていない。
 正しい判断をするべきだ。そのために時には手を抜くことだって必要だろう。いざという時のために力を蓄えておくことだって必要だろう。抜きどころが分かっていない。どうでも良いことに注力してしまっている。
 まともであろうとしすぎる。それはまともでないことの反動、というわけでもなく、こういう性格なのだ。わたしと一緒にいる人は窮屈かもしれない。わたしは完璧主義者になろうとしているのかも。手の抜き方を知らない。やってきたものに対して順番に力を込めることしか知らない。後に重要なものがある場合、息切れして正しく考えることができていない。正しい判断というのは、いつ力を入れて、いつ入れないか、ということも含む。個別を正しく判断することはもちろん、何をいま判断するべきか、ということなのだと思う。うまくサボることも必要。手を抜くことも覚えなくてはならない。
 自分がうまくやれることを示す必要なんてないのだと思う。しっかりしてることを示す必要も。必然的にそうなってしまうというだけで良いのだ。わかる人にはわかる、伝わる。性格としてしっかりしていたい、というのはなんらかの洗脳に依るのではないか。良い感じで手を抜くことを覚えたい。ホントに考えなくても良いことを考えすぎなのだと思う。そういう意味でしっかりしたい。

コメント

このブログの人気の投稿

寝付けない私に、母が話してくれたこと

どう思われてもいいという思考

つっかえたものを取ること

人とひとが出会うことの表現の可能性を知りたい

言葉の力を思考/施行する

正しいからしても良いと思うと、間違っていることに気がつかない

補助輪