惑い人

 年末年始の浮かれた雰囲気が苦手だ。このいまの日本の世界中からの観光バブルも苦手だ。この浮き足立っている感じ、いつまで続くんだろう。ペースを乱されるような足並みなんてないのだけど、何かが乱されているように感じてしまう。自分のことくらいは地に足をつけて自分自身を見失わないようにしたい。というかとっくにわたしは自分を見失っているわけだけど、自分を固定するのを邪魔しないで欲しい、という感じ。この地に足のついていない感じ、いつも惑わされている。こういうときにはいつだってわたしは外に出ないし、家でじっとしている。パーっとお金使おうという感じ、セックスするという感じ、そういう浮かれ具合が嫌なんだ。使うなら、使うべく使いたいし、するならするべくしたい。何かに流されて使ったり、することについて僕は違和感を感じてる。
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 本物になりたい。とつぶやいたところで、そうなれるわけではない。たぶん僕は偽物で、どうしようもなく偽物で、本物にはなりそうもない。コピーですらなく、ただ紛い物である。いつだって誰にでもできそうなことをしているというだけで、読んだ人は自分に立って書けそうだ、という文章しか書いていない。だから、人の心をつかむことはない。そうするつもりはないというのはただの逃げで、本当はそうしたいはずなのにそうするように鍛錬していない。逃げてるんだ。そうしているうちは本物になんてなれないだろう。考え方からして間違っている。本物とはなんなのか、って言葉にならない。でも自分が偽物であるという予感はある。それは自分が頑張れないからで、ただしたいことしてるだけだからで、努力できないからだ。何もかもが間違っているし、正しいことを目指していない、というスタンスをとっている間は、どこにも行けないのだろう。行く気もない、と嘯いている。それじゃあダメなんだ。
 そのために何を捨てるか、っていうのがたぶん大事で。そのために何を懸けられるのか、っていうのが大事で。人の限られた時間を何に使うんだよってこと。くだらない亡霊の相手をしている暇があるのなら、文章のことを考えていた方がいいよって思う。目の前のことに集中し続けていくことでしかなく、そして、そうもできないでいる。連続した何かを自分に用意することができず、ただ受け身にやるべきことをこなしているだけだ。
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 何かに流されて使ったり、したり、受け身だったりするのは根が同じだ。能動的に生きていない。意識的に生きていない。どこまでを許して、どこまでを許さないか、ということを判断できていない。それは何が大事なのか優先順位を作れていないからだ。大事なことがわかっていない。それはしたいことがはっきりないってことだ。わたしはずっと惑っている。はっきりしないまま、この歳になっている。そういうところが、本物でないのだ。一刻も早く、はっきりした方がいいのに、そうするきっかけを求めるだけだ。やっぱり受け身なのだ。

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