トラウマについての一考察

 無理なことは無理である。どんな人にも多かれ少なかれ、トラウマってあるんじゃないか。それが人生を左右するほどのこともあれば、大したことでもなく自分でも気がついていないということもあるかもしれない。心の傷は、外からは見えず他人からはほとんどわからない。普通にしている人にだってなにかしらあるものだ。そういうものがあって傷ついているから人は魅力的に見えるのかもしれない。少なくとも無傷を装っている人には僕は心を開かないと思う。
 僕だって傷つくことはあったし、失敗だってたくさんあった。それがどう心理に影響しているかなんて、わからない。でもきっと小さな影響はあるだろうし、ひょっとしたら目に見える形で現れているのかもしれない。その因果関係がわかることもあれば──つまり人生を左右するほどのこと、と言えるかもしれない──目にほとんど見えないこともあるのだろう。
 僕は精神科医でもないし、詳しいわけでもない。心的外傷について僕はほとんどなにも知らない。
 ただそれが次の行動に影響を与えるだろうということはわかる。未来の行動を躊躇させるということは、わかる。そうやって制限されているであろう人をたくさん見てきた。それがなにによるのかも、なんとなく察しがつくこともあった。そういうことをなるべくなら乗り越えられたらいいのにと思ってた。平気で暮らせた方がいいと思う。
 人はなにかしら背負ってる。生まれたばかりの赤子だって背負っている。大人になればなおのこと。成長していくに従って、周りとの関係によってその人は作られていく。それがどういうものになるのかは、誰にもコントロールできないと思う。臭いものに蓋をすることでさえも、コントロールなのだ。そういうトラウマだってあるのだろう。
 トラウマを乗り越えるとき、そのことがへっちゃらになっている。たぶん、大丈夫だろうと、恐るおそるそれを超えていく。時がそれを解決するかもしれないし、理屈なのかもしれない。いろんなトラウマがあるから、一概には言えない。何か、腑に落ちる瞬間があるのだろう。人の行動を見て変わることもあれば、勇気付けられたり、ある日なんでもないや、と思うのかもしれない。大げさに考えすぎていた、とか、けっこう自分の気の持ちようによっても大きく変わるのではないか。考え方次第で、自分を縛っている鎖は外れたりする。
 何度も書くが私は専門家ではないので鵜呑みにしないように。
 腑に落ちる、という表現が一番ピンとくる。この人はこういう感情や理屈を持っていたから、こういう行動をしたのだと思える。そのこと自体は許せなくても、なんでそうしたのかを知ることができたなら、自分を納得させることができるかもしれない。諦めもつくかもしれない。そこになんらかの感情や筋の通った理屈があれば、だけど。そんなものなく、心的外傷をもたらされることだってある。 
 縁は不思議。その人にどういう風になにをもたらすのか、誰にもわからない。それがそこにあることに何か意味があるのかもしれないし、ないのかもしれない。わからない。なにかを受け取ったときに、どう振る舞うのか。幸も不幸も、必然も偶然も。僕はことによっては取り乱すだろうし、うろたえるだろうし、受け入れたり、あるいは憔悴してしまうかもしれない。自分を失ったまま、人生を過ごすのかもしれない。
 なるべく多くの人が自分の人生を生きることができたらいい。未来の行動に影響を及ぼす全てのことをコントロールすることはできない。でも、ちょっとだけよくすることはできるかもしれない。自分をどう思うのか。自分を憐れみすぎるのも良くない。かといって過剰な自尊心も毒である。
 人に話すと楽になるということもある。書くのでもいい。発することで楽になることもあるだろう。結局はそのことを自分がどう思うのか、だと思う。人生には不思議なことがたくさん起こる。なぜ自分にそのことが起きるのか不可解なことも。なるべくなら、自分を失っている時間は少ない方がいいのではないか。
 自分を自分で縛ってる。制御することで自分を守ろうとする。自縛を解くことができれば、少しは自由になる。許せなくてもいい、納得できたなら。
 そのために、想像力を働かせることだ。状況と感情を把握することだ。その時なにが起きていたのだろう。すべては想像力から始まる。今すぐにでなくてもいい。時がきたら想いを馳せてほしい。腑に落ちる時がくるのだろう。
 どうか、いい人生を。

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