言葉の扱い

 自分が間違っていること「だけ」わかっている。なにが間違っているのかはわからない。知ろうと足掻いてもいない。知りたくないのかもしれない。やはり自分の弱さみたいなものを直視するのが怖いのだろう。できないという自分を受け入れられないのだろう。間違っていると知りながら、間違った道を間違ったやり方で行こうとしている。
 今まで、うまくいったこともあれば、そうでないこともある。ということはどういう時にうまくいって、あるいはうまくいかないか、わかっていないということだ。運にまかせているだけだし、ほとんど当てずっぽうと言っていい。なるようになるさと思っていて、一歩先になにがあるかなんて、考えていないのだ。
 きっと、うまく行く方法があってそれを学んでいけるはずなのに、そうはしていない。自分の思考の癖みたいなものがあるはずなのに、それをコントロールできないというか、折伏できていない。
 「間違っている」というのはいまの状況ではなくて、考え方や振る舞いのことだ。つまり、根源的なことである。
 自分に対して考えているフリをしてしまっている。実際にしていることは言葉をこねくり回しているだけだ。考えたのならそれをもとに有効に行動しなければならないが、そうしようという素振りはない。言葉を並べただけでは考えたことにはならない。(自分なりに)考える(フリをする)ことに快感をすら覚えてしまってる。何かしている気になっているのだろう。でも実際にしている行動は大したことではない。
 考える出発点の着想から始まって、一度も予想を外れない。どこかの誰かが言いそうな経路をたどって、誰もが思いつくような結論に達する。オリジナリティのことを言いたいのではないし、ほかの人も言っているから正しいとも限らない。
 言葉を運用するのに最低限まもらなければならないことを守っていないように思う。その言葉はどこから来て、どこへ行くのか。自分が考えるということはそこにどう活かされているのか。自分がそれを発する意義はなんなのか。
 私が間違っているところの一つはそういった言葉の運用に関する掟なのではないか。考えるということは、言葉を使う。その言葉の扱いを誤れば、思考も誤る。よって行動も誤る。
 言葉に対する言葉が見つからない。どう考えたらいいのかもわからない。どう行動したらいいのかもわからない。自分がどこまでどうわかっているのかわかっていないのかもわからない。
 言葉の扱いについて勉強したほうがいいと思う。

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