補助輪

 置かれた補助輪。はしゃいだ子供が乗ってくる。
***
 初めて自転車に乗れた日のこと。なんとなく乗れるような気がして、父に頼んで外してもらう。補助輪を外すには道具が必要で、それは自分一人ではできないことだった。なんとなく、それだってできそうだったのだけど、だってねじを回すだけだから。だけど、父に頼んだ。乗っているところを見て欲しかったのかもしれない。
 ぼくは自転車に乗りたかった。補助輪はついていても、ついてなくてもどっちでもよかった。だからたぶん一年くらいつけていたと思う。そうするうちに上手くなっていって、補助輪なしでも走れるようになっていた。いつの間にか。それは実は父の調整の賜物で、父のレールの上にいつの間にか乗っていたわけだけど。
 ぼくは当たり前のように父の前で補助輪なしで走って、なんだか誇らしかった。補助輪のシャラシャラ云う音をさせずに走ることができたから。気にしていないふりをして、やっぱり気にしていたのかもしれない。情けないという気持ちにはなっていなかったけど、なんとなく負い目を感じていたのかも。それは父がなるべく補助輪を外そうと工夫したことから感じる何かだったのだ。
 言うなれば、社会性のようなもの。
 人は社会に少しずつ適応したり、外れていたりする。人と違うことを不安に思ったり、誇らしく思ったりする。どっちが良いってもんでもなくて、ただ、幸せだったらそれで良いんだと思う。
 補助輪がない方が曲がりやすい。友達にもばかにされない。シャラシャラ云わない。
 自分の感覚として手に入れたものは失われない。成長の感覚。誇らしい感覚。烏合する感覚。
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 少年は補助輪を置く。誇らしい気持ちと、うれしい感触と、かりそめの自由を手に入れたのだ。その自転車で、どこまでも行くのだろう。

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