わたしの人生における友達についての一考察

 本を読んでいて、自分を縛り付けているものについて腑に落ちた。そのことを考えると過去のことを書かなくてはならないけれど、なるべくそれは簡潔にして、なるべく未来のことについて書きたい。
 要するにキーワードは『ともだち』なのだと思う。こう書くと一気に某〇〇世紀少年ぽくなるけど。過去について触れたくないのは、それがトラウマに直結しているからだ。そこを掘った時、自分がどうなってしまうのかわからない。だけど、表現してみる。
 大学一年の冬に、エポックメイキングなことが一週間くらいの間に起こった。そこで、その何年間かに付き合いのあった人たちと縁を切ったり、その一年間所属していたサークルを辞めたりしている。つまりそこで一気に『ともだち』を失ったのだと思う。その影響が大学四年の時に出て、私は喋ることができなくなったのではないか。私は今そう考えてる。
 物の本によれば、ダブルバインドに挟まれた時、わたしの病気になることがあるらしい。つまり処理できない問題を抱えすぎると病むということだ。
 『ともだち』は欲しいのに自分は拒絶してしまった。たぶんこれだけ書いても読んだ人には意味不明だと思うのだけど、この文章ではここまでしか書けない。とても過去のことを詳細に書くには字数が足りない。わたしにも落ち度はもちろんあったし、彼らにもあった。とにかく、わたしと彼らを繋いでいる糸は切れてしまい、それを修復することを互いにそれほどしなかった、ということだ(ちょっとはあった)。そこには男女間のもつれも絡んでるし、うまく説明する自信はない。わたしは不器用だったし、彼らはわたしを切り捨てたと思う。とにかくそういう結果だけが残ったのだ。
 その時にはわたしは自分のしたいようにしたと思っていたけど、やはり心にずっと抱えていたんだと思う。それが後になって響いたのだ。抱え込んだ闇の大きさに耐えられなかった。人を切り捨てる、切り捨てられるということは闇と直結している。
 ともだちを作ることが自分にはできないのではないか、というのがわたしの根本としての未来への悩みだったように思う。言い換えれば、病気の原因は、ともだちが欲しいのに、裏切ってしまった、というダブルバインドだろう。ともだちを失った自分を心のどこかで了承できなかったのかもしれない。そしてそのことは、未来にともだちができないかもしれない、という思考へとつながっていたのではないか。あるいはともだちはいらない、なんて考えていたのかもしれない。自分の欠損欠陥をいつも思ってる。
 幸運にも、閉じた自分にもともだちと呼べそうな人たちがいた。そのことがわたしを救ったと思う。本当にここ最近逢っているその人たちには感謝している。彼らを友達と呼んで良いのかわからないけど、ボクは少なくとも友達だと思ってる。
 自分を救うには、友達をこれから作っていくことだと思う。有り体に言って仕舞えば、人を信じるということ。自分にも落ち度があったと書いたけど、そのことを未だにうまく自分の中で処理できていない。遠い過去のことであるし、掘り返したいとも思っていない。というか、事実を確認できないところまで来てしまった。全ては済んでしまった。そこに関わった人は、たぶんみんな、幸せに暮らしているのだろう。自分は処理できず、わだかまっている。でも、もういいって、ずっと思ってる。忘れたいと思ってる。ということは、忘れられないということだ。考えてしまうということだ。そこに置いて来てしまったのだ。もう、取りにはいけない。失われたものは、あまりに大きすぎる。時間と、恋愛と、経験と、友達。
 未来の話をしよう。今ボクと友達になってくれる人がいるかはわからない。そんなわけで過去の反省もできていない。また同じことを繰り返すかもしれない。そういう恐怖から、ボクは自分と向き合わず、人とも向き合わず、関わらず、過ごして来たのだと思う。幸運だったのは、人と関わる楽しさをまた思い出させてくれた人たちがいたこと。だから、まだなんとかなるかもしれない、って気がしてる。喋ることは楽しいし、人と関わることは楽しいと、今は心の底から嘘なしに思えてる。ボクにはいろんな記憶が埋まってる。そのことは不安材料でもあり、希望でもあると思う。
 友達がなんで自分にとって大事なのか、ってことは以前にも書いたし、また明日書くかもしれない。今日はここまで。

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