人が一人でできることなんて、たかが知れているのに

 自分一人で何かをできていたかのように認識していたことが問題で。その裏にはたくさんの人の支えや影響や感化があったはず。ちょっと考えればわかることだ。この世に存在し私が触れたものの中に、私に影響しなかったものなんてなかったはず。
 人と分かち合う歓びを、僕は知らないと思っていたけど、それは、僕の想像力の欠如からくることだ。自分一人で何かをできていると思うなんて傲慢なのだ。この世に存在していることさえも、両親の手を借りなければできなかったことなのだ。こうして成長することなら尚のこと。その間にいろんな人と巡り合って、僕は成長してきた。
 一人で何かする方が楽しいと思っていた。思ってしまってた。人と何かすることに意味を見出せなかった。人と何かすることは楽しみを倍に、悲しみを半分にする、という言葉を詭弁だと思っていた。自分ですることを決めて、自分で何かを成し遂げることの方が、尊いと思っていた。その方が自然だった。一人でできることなら、一人でやった方がいいんじゃないか。
 人が一人でできることなんてたかが知れているのに、一人で何かをしようだなんて。知恵は多い方がいい。愚かさから学ぶこともある。自分より優れた人は多い。
 それなのに、僕はずっと独りだった。閉じているとか引きこもっているとか、いろんな言い方を人はするだろうけれど、どれもピンとこない。そういう時間だって必要だ、というのが今の僕の見解で、だけどそれだけでもダメなのだ。バランスが必要。両方できた方が良いと思う。社会性を持つことと、自分の時間を持つことは背反しないのだから。
 一人の時間が大切なのは、そういう時間にしか、自分と向き合えないからだ。誰かを媒介にした自分を見つめても、それが自分の向き合うべき自分であるとは限らない。
 どっかで僕は人を求めている。人恋しいと思うこともあるし、人に認められたいと思うこともある。世間は人でできている。一人でできることには限りがある。二人集まればそれだけできることは増える。三人増えれば三人分の。自分にできないことは人に任せたら良い。自分にできることをなにかに活かすというのなら、それは間違いなく人がいるできることだろう。他人がいるから自分を活かすことができる。
 活かし、活かされる。
 生かし、生かされる。
 自分にできないことをしようと思うなら、人の力を借りるのが良いと思う。
 人ができないことをしようと思うなら、自分の力を活かすのが良いと思う。
 そうやって、人は人と生きてきた。当たり前のように。やっとスタート地点に立てると思う。人を、頼りにできると思う。

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