人を人としてみること、モノとしてみること

 仲良くなる人とそうでない人がいるのはナゼなのか。例えば同じクラスになったとしても、特別に仲良くなる人とそうでもない人がいる。たまたま席が前後になった人と気があったとかこの世界には様々なエピソードに事欠かないけれど、何が人と人が仲良くなることを決定付けているのだろう。
 人と人が仲良くなるということは、まずはその相手に興味を持つことから始まるだろう。その上でその興味を満たしあうことができたなら、それが仲良くなるということの第一歩かもしれない。
 人が人を理解しているということと同じくらいに、その人のことを許せるということが大事なのではないかなぁと僕は思う。他人は他人である。どんなに仲が良くても自分の意に反することはいくらでもあるだろう。全てを自分のいう通りに行動する人がいるとしたら、それは友人ではなく奴隷である。人のすることを理解できなくとも、とにかく許すことができたなら、その関係はある程度はうまくいくんじゃないか。そこにはプライドだとか相手をどう見ているかだとか様々な要素がある。人と人が関わるときに根本にあるべきなのは尊敬の念なのではないか。それがなければ、どんな関係だとしてもうまくいくわけがないとさえ思う。尊敬という言葉が重いのなら、認めているだとか対等に見る、人として見ている、ということでもいい。人をモノとして見ていることは意外と多い。僕の中には人として認められたいというような欲求は当然あるし、人として認められないのならその関係はきっとうまくいかないだろう。
 人として認められていない、ということに僕は絶望してしまう。人としての尊厳を失われてしまう。そういう場面では誇り高く生きることは困難だ。見下されることにはなんらかの理由が在るのだろうけど、ここではそのことについては触れない。欠点を晒したくないということではなく、一般性を失うからだ。欠点は誰にでもあるが、人によっては許すことのできない欠陥というのもあるのだろう。ある人たちにとってのそういう許しがたい何かを、僕が持ち合わせていたというだけに過ぎない。
***
 心を開いている閉じているという言い方がある。人は誰にでも心を開くわけじゃない。同じように出会った人に対しても閉じたり開いたりしてしまう。同じ人に対しても時と気分によって、あるいは何かのきっかけによって、開いたり閉じたりしてしまう。人と人の関係はとても繊細で──あるいは僕が自分をコントロールするのが下手くそだというだけかもしれないが──本当にちょっとしたきっかけや、ほんの一言でガラッと流れが変わることがある。閉じている時、周りにいる人のことをモノとして見ている。自分には関係のない人間だと思っているし、粗末に扱ってもいい、あるいは不義理をしてもいい相手だと思い込んでいる。人を人として認めることからいろんなことは始まる。
 人としての尊厳を守りたい。死ぬまで誇り高く生きていたい。なるべくモノとして扱われることなく生きていたい。そう自分は思っているし、そう扱われることには敏感であるのに、閉じてしまう。人にモノとして扱われたくないと思いつつ、人をモノとして扱ってしまう。矛盾している自分に気がついているか。
 気分によって開いたり閉じたりしているこの不道徳を、不安定を、全ての不義理を、僕は、悔いてる。
 今ある縁を大切に。様々な事象を通して、認め認められている人が残ったのかもしれない。
 あるところではうまくいくし、そうではないところではうまくいかないというだけなのだ。自分を卑下することもないし、自信を失う必要もない。認められるべきところをたまたま見つけてもらえなかったというだけにすぎない。人の本質なんていつだって見えにくいものだ。
 せめて、人間らしく。すべての虐げられた人々に、幸福あれ。

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