互いに高め合う人間という複雑系

 人と人が何かをするということについて、なにがしかの感慨を覚えてる。なんでもいい。バンドメンバーがそこに集まって音楽を奏でることも、小説家と編集者が寄り添って小説を書くことも、詩人と詩人が対詩をすることも、女と男が知り合って一生を添い遂げることだって。
 それは唯の例であって、人と人がすれ違っていくことも、あるいはすれ違いすらしないことも。人と人の間に巻き起こる全てのことを、今は注視したい気持ち。
 その人たちが合わさることになった経緯とか努力とか歴史について、思わずにはいられない。それが優れていても、そうでなくても、関係ない。その人たちが出会ったことの尊さを思わずにはいられない。
 人と人が出会うことを縁というけれど、縁を感じるかどうかはその人たち個人こじんが決めることだろう。僕が縁を感じても、相手が感じなければ、出会うことはできない。親と子でも、クラスメイトでも、何かを感じなければ、その人たちはうまくいくことはないだろう。愛情を注いでも、うまくいかないだろう。
 優れているから必然的に出会うこともあるし、ただたまたま出会ったふたりが高め合って昇っていくこともある。だから優れているというだけでは、私は励起しない。そこで高め合うことのできる人たちこそが私を愛おしくさせる。
 私は人とうまくやるだろう。そんな感じはしているけれど、誰とでも高め合うことができるかといったら、そんなことはない。気を許していてもうまくいかないことはあるし、緊張関係にあるからうまくいこともあるだろう。
 人という複雑系の存在に、僕は魅了されてる。
 僕はまだうまくやる方法を知らないのだ。人に絶望しているわけではなし、希望を持っているというわけでもない。ニュートラルに人を受け入れて、あるいは関わることができるだろう。この先の未来に人が関わってくることは必然で、そのことについては希望を持っている。この家を一歩出たなら、そこには当たり前に人は居て、その人と関わるも関わらないもきっかり半分は僕がその責任を負っている。受け入れることができるだろう。突き放すこともできるだろう。
 人と人が織り成す全てを愛す。この全て歴史も未来も輝かしい。
 僕がこうするから、君はこうする。
 君がこうするから、僕はこうする。
 多くはそこから始まっているんじゃないのか。

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