自分の不満を自覚する

 自分を語ることは、セックスやお金儲けと同じような「快感」であるというのを、どこかで読んだ。きっとなにか脳内物質が出ているのだろう。自分がいくら禁欲的だからといって、この快感を損ねるようなことはしないと思う。でも、ちょっと考えてみたい。
 わたしは自分を語りたいというか、自分を見つめていたいのだ。自覚的でありたいということ。自覚的であるためには自分を表現することが必要で、それゆえにわたしは書くのだと思う。書きようがないことを書いているという自覚だってあるけど、そこに表層された何かによって、きっとわたしは毎日自覚的になっている。はず。
 自覚的になるということは自分を変え続けるということだと思う。その変化によって自覚するのだと思う。行動したり、人に影響されたり。停滞した自分なんてつまらないとも思う。
 世の中には、人を変えることで自分を保とうとする人がいるらしい。つまり人を批判することで、自分の立場を守ろうとするのだ。でも人を変えるより、現状に満足していない自分に自覚的になって、自分を変えていったほうがよっぽど早いし、効率的だとわたしは思う。人を批判したって人は人であって、変わるわけじゃない。その他人を変えたところで、同じ意見の人間全員を変えることにはならない。つぎつぎと人間は湧いてくるだろう。それなら、現状を満足できるように変えたほうが良いってわたしは思う。
 自分が満足していないことに自覚的でないと、人はより一層、不幸になるのではないか。だから、せめて自覚していたいのだ。
 わたしにだって、欲望はあるし、満足していないことは多い。だけど、不満をぶちまけたところで満足できるわけでもないし、足りない部分が満たされるわけでもない。社会通念を変えるより、自分がどうにかしたほうが良いって思う。
 人は自分の持ち物で生きてくしかないんだ。生きてくうちになんとかなるかもしれないし、一生不満を抱えたまま生きていくのかもしれない。それはわからない。だけど、自覚することなしに、何かが変わることはたぶんない。変えようと思わなければ変わらない。変えようと思った瞬間に変わるかもしれない。意固地になってもしかたないって思う。そうなってしまうのもまた人間だけど。 
 わたしは壊れている自分を自覚することから目を伏せたくない。欠けている自分をずっと恐れてた。言葉では闘うと書いていても、障害と向き合っていたわけじゃなかった。実際に行動していたわけではない。どこか逃げていたんだと思う。行動するのに何年も掛かってしまった。
 自覚することから始まる。それは間違いない。それを受け入れて、考えて、行動する。それは書くだけではだめなのだ。書くことは行動することとは違う。人生を賭けて行動することとは違う。表明・宣言でしかないのだ。言うだけなら誰にでもできる。もう何度も同じことを書いている気がしてる。こういうことを書けるようになったのは、わたしが行動し始めているからだ。行動することの良し悪しを知りつつあるからだ。
 いつも、現実がすべてだと思う。そこから目を逸らしたくない。

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