壁を越える厳しさ

 最近思ってることを今日は書く。どう表現したらいいのかわからないので試行錯誤して書くけれど、うまく伝わるとうれしいです。とにかく書いてみます。
 社会の厳しさというか、入りにくさ、みたいなのを感じてる。甘ちゃんの自分が悪いんだけど、でも、感じてるものは感じてる。ちゃんとしてなくてはいけない感じというのが本当にひさびさで面食らったというか、ちょっとショックだったんだよね、やっぱり。あぁ、こういう感じ、あったわ、って。ずっと忘れていた。
 大学に入りたての時のような若い頃には、世間知らずでもなんでもとにかく若いんだから許されていたことがたくさんあったんだと思う。今はそれが許されないというか、相手にもされない年齢になっているのだな、ということを、最近になって実感した。
 しっかりしていればいいのだし、社会性というか、そういうある種の厳しさを受け入れることはできる、はず。でも、ずっと一人でいて、そういうアマい生活の楽さに慣れてしまっている自分もいる。温室はやっぱり心地いいし、出るのが困難だっていうのもわかる。
 私はいま、誰にも認められていない人間だ。それはある種の厳しさを通っていないからだ。誰の担保もない。この人はこういうことができる人だ、と誰からも認められていない。それはきっと厳しさとひとつながりにたぶんなっていて、その壁を超えたクオリティを持っていないと、社会には認められないんじゃないかな、と思ってる。
 それは、自分の作るものもそうだし、自分自身のことも言っている。
 自分に厳しく、ってよくいうけど、私にはそういう風にはできそうにない。自分に厳しいのかもしれないし、甘いのかもしれない。自分ではよくわからない。やるべきことをやっているつもりだったけど、それが社会性を持っているかというと、全然そんなことはなくて、ただ自分なりにやっているというだけだった。走ることも睡眠時間も食事も、書いたものも、もう、何もかもが。
 自分という人間が、自分のしてること、作ったものを見ている。だから、自分がもとだし、そこから全ては始まってる。自分がダメだったら、自分の作ったものも、たぶんダメだろう、って普通に考えて、まぁ、そうだろうと。まず自分ありきだし、自分がダメだったら、何やってもダメなんじゃないか。
 私は自分のことを社会性がある方だと漠然と思っていた。だけど、全然そんなことはなくて、常識から、資格から、職業から、能力から、全てにおいて落第点なのだ、と実感した。一人でいると、いろんなことが見えなくなるし、それが当たり前になる。できると思ってたことは何もできない人間が一つ、できあがる。
 社会性って、クオリティのことを言ってる。人としての質。私はそれがとても悪いのだと思う。病気だなんだと言い訳していたけれど、それを言い訳とも捉えず、したいように暮らしてきた。そのつけが回ってきたというわけ。そうやって自分の持ち物をほとんど何も持っていないような人間ができてしまった。役立たずの人間ができあがってしまった。
 社会を甘く見ていたと言わざるを得ない。順風満帆な人生だったけれど、大学卒業くらいから怪しくなっていった。自分の思うようには、もう、生きられないかもしれないって感じがしてる。だから、うろたえてる。
 人に認められるための、質が足りない。何に於いても。自分のしたいことをしていたのだけど、質を求めるということを、全くしてこなかった。ただただ闇雲だった。誰の批評も受けていないし、受けることを拒んでいた。批評されても、相手にしなかったかもしれない。私は怖がっていた、批判されることを。ゴミみたいに扱われることを。無かったことにされるのを。そういう気持ちが文面にも表れていたんじゃないか。どこかに怯えが潜んでいたのではないか。
 自信を持つには、人に認められることだ。私の課題として、卑屈である、ってのがあったのだけど、それって誰からも認められていないからなんだと思う。でも私はそういうクオリティを持っていない。アピールする点がない。批判を恐れていたのでは、そこから先もない。
 人として、どうなのか、ってこと。今の自分はただの無職で、元病人で、喋ることに不安を持ってて。何にも誇りに思っていなくて、努力もしていなくて、熱い心も、愛する心も、持っていない。それじゃあダメなんだ。
 ダメなんだといってるだけじゃあやっぱりダメで、変えるべきところは変えていかないと、したいことはきっと何もできないであろう。
 質を磨くのなら、量を達成していくべき。その中にはましなものがあるかもしれない。量によって磨かれるものがあるはず。
 人に認められたいとずっと思ってきたはずなのに、認められる行動は実際にはしていなかった。できなかったというのは言い訳で、しなかったのだ。恐れていたのだ、認められないことを。
 厳しさに向かっていくことでしか、それを乗り越えることはできない。それは誰もが通っている道だけれども、こんなに自信のない、何にも誇りを持っていない人間にその道を通れるのか、いささか不安ではある。だけどなんとかあぐねてそこを通り切らなくてはならない。
 掴みたいものを掴むためである。

コメント

このブログの人気の投稿

寝付けない私に、母が話してくれたこと

どう思われてもいいという思考

つっかえたものを取ること

人とひとが出会うことの表現の可能性を知りたい

言葉の力を思考/施行する

正しいからしても良いと思うと、間違っていることに気がつかない

補助輪