9年目の会話

 昨晩、友達とLINEで会話しました。
 二人とも小学校からの友人で、一人は名古屋在住、もう一人は横浜在住。名古屋の子とは滅多に会えないので、私が喋れることにもそんなに違和感なかったみたいというか、私の緘黙をそんなに実感としてなかったみたい(事象としては知っていて、心配してくれていた)。ぜんぜん違和感ないよね、と言ってもらえてよかった。
 最初は名古屋の子と喋っていて、横浜の子が時間でき次第合流する手筈になっていた。はじめの方は二人でしんみり話してた。とりとめもない話。まるで、私が喋れないことなんてなかったみたいに淡々と、近況とか、最近読んだ本とか、漫画の話をしてた。2、30分経ったくらいで横浜の子が突然闖入してきて、二人ともびっくりして笑ってた。名古屋の友達は私の頭がおかしくなったのかと思ったと言ってた(笑)。横浜の子は、ハイテンションで入ってきて、これから電車乗るから、あと1時間待っててとだけ言って去っていった。横浜の子はここ一年くらいけっこう頻繁に会っていて、筆談していた関係なので、私が喋れるようになったことがうれしいみたいだった。それゆえのハイテンション。
 名古屋の友達は寝るというので、一人で起きたまま、横浜の子が帰宅するのを待ってた。鳴る電話。会話。筆談だったり、LINEのチャットでしてたような話の続きを会話でした。二人ともいろんなことで悩んでて、苦しんでて、そういうところで意識共同体というか、分かり合えるところもそうでないところもあって。時々笑いながら、ちょっとうるっときながら、話してた。
 ほとんどまともに話せなかった9年間。まだ完全に喋れるようになったわけじゃないけど、まぁ少しは前に進んでるかなと思う。
 これから、明らかに生活が変わるだろう。そのことをずっと恐れてたと思う。私には幸せになる勇気も、不幸せになる勇気もなかった。それらは一緒になって私に迫ってくるのだ。矛盾しているようだけど、人間には表裏一体それらがいつもつきまとっている。どちらのリスクも背負っている。どちらかになるのなら、今のままなんとなくしあわせでいた方が良いのではないかと思ってた。だって、いま、十分にしあわせだから。幸せに、喋るも、喋らないも関係ないって、思ってた。
 でも、昨日の夜、ちょっとだけだけど、喋ってみて。幸せと喋ることは関係あると思った。喋れなかったからそう思うのだと思う。
 声を出して笑うこと。自分の言ったことで聞いた人が笑うこと、頷いてくれること、認めてくれること、感心してくれること。自分に興味を持ってくれること。喋ることの全てが、喋ることでしかできないことだ。喋ることは安易だし、でも聞き取りづらくて齟齬があったり勘違いしたり。でも、声を発するっていう表現がとても楽しいことなのだ、と私は思った。喋れる人には当たり前のことなのだろうけど、でも、これはたぶん、大事なことだ。喋れないからそう思うんだ。
 久々に喋ってみて、ニュアンスを作ることができなくなっていることに気がついた。たぶん人は普通、声の抑揚とか音量の大小とかでニュアンスを作ってる。無意識のうちに。そういうことができなくなっていて、歯がゆかった。一本調子みたいになってたり、滑舌も悪かったかもしれない。
 電話が全て終わった後、喉が痛かった。ずっと使われなかった器官を久しぶりに使った代償。自死するのなら今だろうな、となんとなく思った。いつの間にか寝ていた。朝起きても咳ばかり出た。喉がイガイガした。生きてるのだと思った。死ぬ機会を逸したのだ。私は生きている。
 ふたりの友人に感謝します。これから私と喋ってくれるであろういずれ逢うすべての人に感謝します。
 喋るってことがどういうことなのか考えられるのは、自分以外にいないって思う。だからこのことを、何かきちんと形にしたいなぁと思っています。

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