喋れるようになって、忘れないこと

 ある頃から、この世界の多くの人にとって当たり前にできていたことができなくなった。それからというもの、不自由な生活を強いられてしまった。私は障害者、だった。今は違うのだが。
 普通の人と違うのは筆談をしなければ、意思の疎通を取れないということだ。身振り手振りでもできるが、それは曖昧な言語である。詳しく喋らなくてはならない時には、否応にも筆談となる。
 もちろん家族とも筆談である。何をするにも。どこへ行くにも。この口は、食事をするためのものでしかなくなっていた。とにかく不自由にこの9年間を過ごした。
 家族はだんだんと私が何を言いたいのか、そのジェスチャだけでわかるようになってくる。しかし、パソコンやスマホなどの説明は専門用語を擁する具体的な話題のため、筆談でするより他なかった。
 少なくとも週に2,3度は母にエクセルやワードの操作ついて訊かれる。その度に筆談していた。私と母の間のコミュニケーションの多くはその話題だった。パソコンが必要になった母にマックを勧めたのも私だし、なのならば、その説明・解説も必然的に私だった。
 筆談には限度がある。伝わらないことも多い。なんとか言いたいことをまとめてメールしたり、教科書を作ろうかと思ったほどだ。母は今、なんとなくパソコンを使えているようだ。
 とにかく、パソコンが私と母をつなぐ懸け橋であった。週に2,3度母は私の部屋を訪ねてくる。来たら、あ、マックだな、と大体わかる。それを私は心待ちにしていたようにも思う。母の方でもわざわざ訊くことを作るでもないが、何度も同じことを訊いてくることもあった。そこが、実世界での私の社会とのほとんどすべての繋がりだったのだ。そういうことがなかったなら、私は今こうしていないかもしれない。
 ある日から、筆談を必要としなくなった。きっかけは様々なのだが、ここには書かない。普通に喋るようになり、家族もそれを普通に受け入れていった。何もなかったかのように。以前からずっと喋っていたかのように。
 先日、母がいつものように私の部屋にパソコンを持って来た。私はその時初めて母に口頭でマックの説明をした。「ここをこうして、こうすると早い」何も返事がないので振り返ると、母は泣いていた。目を真っ赤にして。
 こういうことで、実感するのだと思う。何事もなかったように振る舞っても、顕著になることはこうしてあるのだ。ずっと喋れなかったこと。筆談では伝わりづらかったこと。そういう壁を一番感じるのはマックの操作について伝達する時だったのだ。
 こうして喋れるようになってよかったと思う。
 あれよあれよといろんなことが進んで行くが、このことは、きっと、一生忘れないだろう。

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