「引きこもり」であることを自覚するということ

 まず、自分では自分に対して引きこもりという言葉は適さないのではないか、と漠然と思ってた。病人であって、せざるを得なくて家にいるのだから、引きこもりとは違うのだと。だけど、まぁ他人から見たらそれは紛うことなき「引きこもり」なのである。別にそう見られることが嫌だとかそういうことでなくて、自覚の問題なのだと思う。
 「引きこもり」として見られているのなら、そういう振る舞いをするべきだし、つまりそこから脱するだとかそういうアクションを起こすべきだと思う。開き直るとかさ。
 だけど「引きこもり」としての自覚がない人にはそういうアクションを起こすことは難しい。だって「引きこもり」だと思っていないのだから。「引きこもり」だという自覚がないことにはそこから脱するとか開き直るとか、何もすることはできずにただ病人であるだけなのだ。何の変化も兆しもそこにない。
 「引きこもり」としての自覚はずっとなかった。だってオレ外にも出てるし、出たくないわけでもないし。ただ人と喋るのが苦手(最近になって苦手というくらいまでに恢復した)というだけで、都会に出ることも結構平気でしてたし、毎日散歩して、ジョギングして、って活動してるから。人と会うのが苦手なのを「引きこもり」の定義とするなら当てはまるけど、例えば1ヶ月とか家から出ない人のことをそういうのなら、今の自分には当てはまらない。かつての自分は半年とか外に出なかった時期もあるけど、ほとんどその頃の記憶はない。というか病気が重すぎて死んでたので(苦笑)。
 「引きこもり」としての自覚って、けっこう大事だと思う。あぁ、そういう風に見られてるんだ、ってのはかなり新鮮で、人に何かのレッテルを貼られるということがほとんどなかったので、なんとなく存在を認められた気になって、少しうれしかったりした。確認されたというか、理解されたというか。「引きこもり」だってことがうれしいわけじゃないけど。
 たぶん人と人の関係って、互いに互いを理解し合っていく、ということが大きいのだと思う。ネットですれ違う人も、道ですれ違う人も、どのくらいの深度で理解するか、ってのは、人と人の関係に於いてかなり重要なファクターだ思う。もちろん、この人のことは別に理解したくないということも含めてね。
 何に依ってそれが左右されるのか、ってのはよくわからないけど、面と向かってならハンサムだとか美人だとか、たまたま知り合ったからとか縁があったからとか、共通の趣味を持ってるとか、同じ会社に勤めてるとか、いろいろあるんだと思う。ネットの方がハードルはずっと下がるような気がしてて、ツイッターはそれが面白いな、って思う。ほとんどが自分の装備してる興味・関心で繋がってるから。
 たぶん、どれだけ人に理解されるか、されたいと思うか、っていうのが運命の分かれ道で。それをあきらめたら本当に『引きこもり』になるんだと思う。だから、そこのところでまだ自分は世間と隔離してない、みたいなことが言いたい。とても言いたい。人に評価されたいと思ってるし、確認されたらうれしいし、理解されるのはうれしい。承認されたいと思ってる。たぶん、僕が毎日文章を書くのはそれが主な理由だと思う。
 僕は自分をどう見られているか、ってのにけっこう無頓着だったのだけど、そうだとしてもやはり、気になることは気になる。というか、段々と人並みに近づいてるんじゃないかなぁとは思ってる。自惚れかもしれないけれど。恢復が進んでるのはその所為であるとさえ思う。
 人とどうやって向き合うか、っていうか付き合ってくかってのが難しくて。自分の振る舞いとか、立ち位置とかいろいろと考えてしまう。どう人に見られるだろうってさ。どう見られるのが良いのだろうって。無理しても仕方ないし、できないことしても仕方ないけど。かと言ってありのままというわけにも今はとりあえずいかない。というかそれだとあまり人と接しないって気がする。引きこもりの片鱗。どういうことを人に見せるか、言うか、語るか、っていうのはたぶん戦略できる。嘘はつく気ないけど、魅せ方もあるし、何をどう出すかってのは重要なことだと思う。好きなことにせよ興味のあることにせよ。そういうことをきちんと考えて行動したら、ちゃんと人として見てもらえるんじゃねーの? って今は思ってマス。

コメント

このブログの人気の投稿

寝付けない私に、母が話してくれたこと

どう思われてもいいという思考

つっかえたものを取ること

人とひとが出会うことの表現の可能性を知りたい

言葉の力を思考/施行する

正しいからしても良いと思うと、間違っていることに気がつかない

補助輪