すべてをあきらめている自分へ

 一生懸命になれない自分にコンプレックスがある。それは以前は一生懸命だった時があったということの裏返しでもあるのだけど、それでダメだったってこともあって、自信を失っているのかもしれない。根を詰める媒介がないことがそもそもの問題で、そういうものを見つけようとしていないかもしれない。見つけようと思わなければ、一生見つからないだろう。
 我武者羅に何かをするということから遠ざかって幾年も経つ。その間は病気もあったし、いろんなことがあったけど、一生懸命にならない言い訳をふんだんに盛り込んで私はこれまで生活してきた。できないことを病気その他の所為にしてきたし、それは真実かもしれないけど、真実ではないかもしれないとも思う。できることは、あったはず。それをし尽くしていたかというとそんなことはない。
 だから、悔いが残ってる。できることはいくらでもあったはずであったのに、私はそうはしていなかった。いつもギリギリで、いっぱいイッパイで。でも余裕を作ろうとはしなくて。1日にするべきことを決めて、それをこなしてるだけだった。一歩も前には進んでいなかった。
 この世は、実力がすべて。人情とかに頼ってられない。確固とした何かしらの実力を示すことができなければ、何もできない、役立たずな人間として扱われて当然。自分を如何に制御してくか、どう振る舞ってくか、何を鍛えるのか、どうプロデュースしてくか、ってのが、たぶん肝で、そういう視点をずっと自分は持ってなかったと思う。ただやりたいことをやりたいように、やたらめったらやっていただけだった。計画性も思惑も、何もなかった。
 ただ文章さえ書いてたら、それで満足だった。満足だったのに、実際に文章で人に認められてるかといったら、全然そんなことはなくて、ただ自分のことを書いているに過ぎない。誰の役にも立たないことを書いているだけの人間。
 私には、衝動がない。これをしなければ気が済まない、ということがない。
 瞬発力を持って書くことはあっても、それが人にどう影響するのかっていうと、なんの影響もしないのが現状だ。だって、自分のことしか書かないから。そこには思惑なんてないし、人をこういう気持ちにさせたいとか、何かをコントロールしようとか、そういうことなんて皆無なのだ。だからダメだっていうんじゃなくて、それでは、この世に存在する意味がない。人に語られて初めてその文章は文章たり得る。映画が語られて初めて映画として存在できるように。音楽が、以下同文。閉じた系で在っても、存在していることにはならないのだ。特にこの広大で蒙昧なネットの世界では。だから書いても意味がないっていうんじゃなくて、きちんと人に伝わるように書かないと駄目だと思う。
 昨日も書いたけれど、自分の身の丈に合っていない振る舞いをして失敗してきた人生だった。何もできないのにいい気になってる、とか。人より上に立ちたがるのに、内実が伴っていないことが多かった。私は勘違い野郎だった。いろんなことで悩んだけど、すべての根本は、そういう資質みたいなものにあるんじゃないか。でかい口叩くなら、それなりの実力と地位が必要だ、ということを学ばなくてはならない。自分が小さい人間だ、ということに気がついていないまま、大きいと勘違いしていたのだ。
 できることと、できないことがある。そりゃある。得意なことと不得意なこととある。人に認められてることと認められていないこと、認められたいこととそれでも認められていないこととある。そういうことのすべての判断を正確にしなくてはならない。それができなければ、どんなに一生懸命に頑張ったところでなんの実もつけないだろう。ただ闇雲にやっても行き着く先はいつも一緒。また同じように失敗するのだろう。
 だから、今度はきちんと狙って、撃つ。計画を練って、実行する。自分の悪癖に敏感になること。そうすれば、きっと、大丈夫。意志あるところに道は開ける。

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