続けられるという勇ましさ

 それをやり続けるということは、人によっては困難なことである。しかし、また別の人によっては特別な配慮をしなくても簡単にやり続けることもある。まるでそうなることが神の思し召しであったかのように。それが不思議な力なのか、あるいはそう形容したくなるような不思議なことであるかは、その人にとっての困難さによるのかもしれない。ある時期にできたことが、またある時期にはできなくなっているということもあるのだろう。心の余裕とも密接に関係があるし、あるいは執着とも言えるかもしれない。
 私の家では毎年夏にトマトを栽培する。それは食べるためではなく、隣の家との境の壁に叩きつけるためだ。その模様はとても絵画的で、近所の人の関心を集めている。今日はいい出来やなぁ、とか今年のトマトはイマイチ良い模様が付きにくい、とか寸評が毎日のように行われる。これをするために私の母は毎年畑を耕し、種を買ってきて、トマトを育てる。実が生る朝、叩きつける大きさに育ったトマトを収穫し、そのまま壁に叩きつけるのだ。別に隣人に恨みがあるわけでもない。ただ叩きつけるのに良い壁であるからそうするだけなのだ。白壁は夏の間じゅう、紅に染まる。
 そうすることをもう50年、母は続けている。
 続けることを求められるからであるし、彼女もそうしたいのだ。続けるということがどんな意味を持つのか、全くわからない。どうでも良いとさえ思う。誰からも評価されなくてもそうするだろう。ただそうすることが楽しいのだ。そうしなくてはいられないのだ。だからそうするのだ。続けることに意味があるというよりも、その心意気に意味がある。毎年、それだけのトマトを育てる心と経済的な余裕もそれに加担しているのかもしれない。
 続けることの勇ましさを、私は幼い頃から感じている。
 トマトは食べるものではなく、叩きつけて壁を装飾するものだとばかり思っていた。たまに食卓に出るものや、小さいそれを、私たち家族は訝しげに見ていた。
 母はそれを死ぬまで続けるのだろう。彼女がやらなくては、意味がない。思し召しとして、それをするのだ。そうすることが彼女の命であり、銘である。
 これからも血のように紅いトマトが、庭に実り続けるだろう。

コメント

このブログの人気の投稿

寝付けない私に、母が話してくれたこと

どう思われてもいいという思考

つっかえたものを取ること

人とひとが出会うことの表現の可能性を知りたい

言葉の力を思考/施行する

正しいからしても良いと思うと、間違っていることに気がつかない

補助輪