いつも最善を尽くしてるかと問われると、自信がない。

 いつも最善を尽くしてるかと問われると、自信がない。なんとなくやってしまってることもあるかもしれない。悔い尽くせない自分が情けない。何かを諦めるほどそれをしていないのに、諦めようとしている。
 私は卑屈かもしれない。弱い自分について、開き直っている。強くあろうとしていない。弱くても構わないと思っている。だから、ずっと弱いままだ。その開き直りが、私をさらに弱くする。相乗に弱くなっていく。まずは弱い自分を認めて、そこから足掻くことだ。
 できることをしているかというと、怪しい。できることが何なのかすらも把握できていない。できることとできないこと、向いてることと向いてないことの線引きができていない。だから何をやっても駄目なような気がするし、何もできないような気になっている。本当はできることだってあるはずなのに。そんな片鱗は見えるのに。しようとしない。挑戦もしない。そして、できることはどんどん限られていく。結果、できなくなっていく。 
 今が肝心だ、とわかってる。でも、そうしようとしない。どんどん喋っていかなくてはならないのに、そうはしない。無理にでも人と喋る機会を作ればいいのに、そうはしない。勇気がない自分を肯定しようとしている。これは仕方がないことだと開き直ってる。やはり、卑屈である。
 その根本のところで、私は曲がってる。だから先に進まない。いつまでもこのまま。生活が変わることを過度に恐れている。喋ることを恐れてる。喋れてしまう、と思ってる。喋れないことは困ることではない、などと思いつつある。喋れたほうがいいに決まってるのに。そのほうが楽しいのはわかりきっているのに。そうはしない。
 最善を尽くしているか。何か今日、昨日と違うことをしたか。新しい何かをしたか。きのう駄目だったことを改良したか。私は良くなっているのだろうか。
 した努力はすべて報われた、と言えるほど、私は頭をひねっているだろうか。徒労に終わっていないか。そもそも努力をしているのか。報われるべき努力をしているか。
 いろんな疑問を出したけど、もっとシンプルに。
 したいことをしているだろうか。これが本当にしたいことなんだっけ? したいことをしたいようにしているか。そのことだけが心配。悔いのないように。悔い尽くせるように。

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