愛することの問答

 山頂にある巨石の前で、人が虚空に向かって喋っているのを、私たちは片隅で聞いていたのだった。
「本当に愛したら、本当に愛されるって、本当ですか、神さま」
「私は真に愛されたいのです。そして真に愛したい」
「愛するとは愛する気持ちを相手から引き出すことなのでしょう? わかっています」
「互いに引き出し合えば、愛し合うことができるのでしょう」
「そしてそのためには、自分にも愛されるに足る魅力がなければならないはず」
「それが私にあるのかはわからない」
「人が私の何に魅力を感じるのか、見当もつきません。そんなもの、あるだろうか」
「神さま。私は人に愛されるに足る人間でしょうか。とても不安なのです」
「このいたたまれない気持ちのやりどころを、私は知らないのです」
「わからないことだらけなのです。どのように人と人は愛し合うのか。惹かれ合うのか」
「本当に愛するとはどういうことなのでしょうか」
「愛するとは、許すということなのでしょうか、受け入れるということなのでしょうか」
「愛とはなんなのでしょう」
「私は誰だって愛せる気がするし、誰も愛せないという気もするのです」
「どんな音楽も、どんな演劇も、どんな文章をも、私は愛せるのです」
「私は優柔なのかもしれません」
「なんだって良い気がします。なんだって良いのです……。愛するに足るならば」
「人も同じなのです。愛することを引き出させてくれる相手であるならば、私はそうできるでしょう」
「そうであれば、誰だって良いのです。たまたま知り合った、たまたま気の合った人と結ばれるのでしょうか」
「真の愛とはなんなのだ」
「神よ」
 その人はそこまで言うと下山していった。
 私たちカップルは考えさせられた。なぜこの相手と結ばれたのだろう。私たちは本当に愛し合っていると言えるのだろうか。不穏な空気がそこに生まれた。私たちにそれを考えさせるために、何者かが私たちの前にこの人を遣わしたのかもしれないと訝しがってしまう。
 その次の夜、正式に私たちは結婚を決めたのだった。山の上の問答を聞いたことが切っ掛けとなったのかもしれない。ただこの人だと思い、互いの未来を受け入れることができる、その一点だったのだと思う。そういう人と出逢うということがそもそもの人生の不可思議で、宇宙の謎である。私にもわからない。なぜこの人であったのか。でも、この人でなければならなかったのだ。なぜだかそう確信できるのである。
 かの人は私たちにこそ幸せを授けてくれたのだ。こうしてまた幸せが伝播することを、祈っている。

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