自分が情けない人間なのだということを呑み込んでから、すべてが始まる

 自分なんて大した人間ではないのだということを呑み込んでから、すべてが始まる。別に大した人間だと思ってたってわけでもないけど、なんか可能性があるとか、地力があると思ってたと思う。それだけの自尊心を抱えるだけの経歴だってそれなりにあったのだから。でも、そんな経歴だって今の自分を省みたらなんの役に立たないってことは、とてもわかる。だから、ぼくはしっかりしないといけない。これはどうやってこの先生きのこるかって話だ。
 自尊心というか、やっぱり、自分のことを過大評価していた部分はあったのかもしれない。ある時期まではうまくいってたけど、ある時からはうまくいってない。社会的ないわゆるレールの上には、もう乗ることは難しいのかもしれない。どうしてもレールに乗るというのであれば、それ相応の努力と根性とやる気と、必要だろう。今の自分にそれがあるのかっていうと、よくわからない。どう生きるのか、って難しい問題。やるなら資格取るとか、いろんなことが必要だ。
 レールが何の為にあるのかって、何も考えずに生きるとか、好きなものがないとか、才能がないとか、いろんなことの為にあるのかもしれない。別に自分が、考えて生きてるとか好きなものがあるとか才能があるとは言ってない。だけど、レールに乗らなくても何とか生きていけるだろうと、タカをくくっていたと思う。何となく、生きていけると思ってた。
 今だってどうやったって生きていけるとは思ってるけど、それが幸せなのか、っていうのはわからない。どう生きるのが幸せなのかって、わからない。具体的には家族をどう持つかとか、どう死んでいくかとか、そういう人生設計のことだ。そういう設計を考える前に病気になってしまって、何も考えずに生きてきて、どうしようもなくなってしまったのが、今の自分であると思う。病気のことを言い訳にするのは嫌なんだけど。事実は事実だから。病気だとしても誇り高く生きてる人は実際にいて、自分はそうではなかった、情けない人生だったって思ってる。
 いま、これからを、どう生きるかってことをきちんと考えたい。きちんと考えるのがどういうことなのかってのも知らないままにこう書いてるけど、何とかにじり寄っていけたら。考えることに食らいついていけたら。
 どう生きることが、人として正しいのだろう。「誇り高い」って言葉を、安易に思いつきに使ったけど、今の気持ちとしてはそういう言葉を使わざるを得ない。サラリーマンとして真っ当に社会の役に立っているわけでもないし、何かに誇りを感じてるというわけでもない。文章を書くことは好きだけど、ただ好きだってだけで、立派なものでも誇れるものでもない。ただ書いているだけだから。
 遊んで暮らしてきた、というツケをこれから払うのだろう。うまく立ち振る舞わないと、とても嫌な目にあうのはもう想像がつくことだ。人には私が病気だったことなんてどうでもいいことなのだ。何もしていなかった時間を過ごした、何のキャリアでも経験でもない時間を過ごしていた、ということ。どうしたら人を納得させられるだろうか、みたいなことを考えてしまっていて、自分が厭になる。
 もちろん私はこの9年間に納得してるわけじゃないし、でも、だからといって無駄だったとも言いたくない。できるなら活かしたほうがいいだろうとは思うけど、活かせる何かをしていただろうかっていうと、わからない。何も考えていなかった、っていうのが正しい。だって、それで生きていけると思ってたのだから。言うなればクズなんですね。
 目論見の甘さがあった。社会を知らな過ぎたということ。その代償は「きちんと」払わないといけない。嫌な目にもあって当然だと思う。問題はそれに耐えるか、ってことだ。簡単に折れそうな気もするし、やってやるって気持ちもある。それが幸せにつながるのなら。誇り高く生きることができるのなら。
 できることとできないことがある。うまくそれを選んで生きて、運を味方につけることができたら、まだチャンスはある。まだ全てを失ったわけではないし、私は運が良かった。この家に生まれたことから始まってね。自分の力で掴めた事ごとも含めて。まだ、自分のやりよう、努力次第では、良い人生になるって予感はある。
 病気が深かった時に漠然と思ってたこと。何かやったら失敗するかもしれない。私はおそらく何だって失敗するだろう、喋れないことと同じように。どういうことが失敗で何が成功で何が良くて何が悪くて、ということの判断をつけることができない。どうしたら失敗をリカバリーできて、あるいはリカバリーしたことになるのか。失敗って何なのか。人を傷つけるってどういうことなのか。私はもう何も失敗したくないと考えてた。失敗するくらいなら何もしないことを選んでた。失いたくないと。傷つきたくないと。
 出るべきでないところで自分を過大評価して、失敗してきた人生だったように思う。大した実力もないのに皆の上に立つべきだとか、そういう風に思って人に冷ややかに見られてた。実力と人の評価が一致していないことが多かった。今だってそうだと思う。でかい顔する理由なんて、何もないんだ。
 今は、小さくなって力を溜めるべき。
 喋れるようになって、余裕ができた。何でもできるとは思わないけど、喋れない時よりはできることは増えたし可能性も増えた。やろうと思いさえすれば。若い人よりは歳をとってるし、歳をとってる人よりは可能性はある。これからその可能性はどんどん狭まっていく。何かをするということ自体が世間体から外れて恥ずかしいことになっていってしまうのだろう。誇り高いと自分で思ってても、それを周りが許さない年齢と見た目になっていってしまうだろう。それをどう感じるかは自分次第だけど、それを誇り高いと思えるかどうかは私にはわからない。
 どうあっても大丈夫。失敗しても大丈夫。というか、今、経歴としては底辺にいる。頑張り次第でどうにでもなる。まだ詰んでない、と思いたい。やらなければ、できない。メンタリティ次第ではまだ、人生は、ある。諦めてない。やれる。問題は、何を、どのように、どうするか、だ。知恵の絞りがいがあるというもの。本物になりたい。

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