「若々しい」という言葉は、必ずしも褒め言葉ではない

 歳相応の経験を一切せずにこの歳になってしまった。たぶんこの歳の普通の人が経験する何事も、私は経験していない。どんな業種だとしても、うまく渡っていけない気がしてる。転職はみんなそうだよというかもしれないけれど、私にはなんの経験もない。こんなこと、堂々と言ったって仕方がないのだが。ないものはないし、そのことは今後の不安材料となるだろう。
 学生の時から大人っぽいとかしっかりしてるとか言われて大学生らしく扱ってもらえなかったりしていたけど、そういうアドバンテージはもうないだろうなと思う。しっかりしている人間が通るべき道を何も通らずにこの歳を迎えてしまったのだから。それは実際にはしっかりしていない人間なのだ。それが病気によってだったにせよ。
 年齢とか、経験みたいな曖昧な言葉を語るのは危険かもしれない。うまく立ち回ったらいい経験ができる可能性はあるし、まだ人に認められる可能性だってあるのかもしれない。問題は自分の持っている能力をどうやって人に示すのか、ということだ。その示し方としての「資格」だったりするのだろう。資格をずっと甘く見ていたけど、とったほうがいいのではないかと思い始めてる。というか、自分がこの先生きのこるためには資格をとるという選択肢しかないのだ。それでしか能力を示す方法がない。この先の道にもよるけれど。
 何をしたらどうなるか、なんて、誰にもわからない。欠けていると思っているところが長所になることだってある。自分の非常識さが役に立つ何かが、ある……かもしれない。たぶんないけど。
 歳相応の経験や振る舞いというのが、どういうものなのか、自分にはよくわからない。たぶん、自分は一端のサラリーマンにはなれないだろう。というかここまで来たら踏み外せるだけ踏み外したらいい。そういう道だって自分にはあるはず。その為には、優れた才能が必要で、それを示す必要があるのだろう。
 自分には目立った才能なんて無さそうだな、というのが此処まで生きてきての所感である。人生に人を魅入らせることができる何かを持った試しがない。そうしようとも思ってこなかった。魅力的な人間というところからは本当に遠いところにいる。おべっかも使えないし、人によく見られたいということもない。ただ生きているだけに近いのだから。
 自分にできることを探ってるここ数年だった気がするけれど、結局、見つからなかった。文章を書くことは好きだけど、人のために文章を書いたことがないし、自分のことしか書けない。だから自分の役に立つ文章は書けるけれど、それが人にアピールするかっていうと、それはまた別の話だと思う。
 うまく立ち回れたら、どんなにいいか。賭けをせずに生きたい。頭を働かせたい。そのためには経験が必要。失敗して、しまくって、どうすればうまくいくだろうと考え続けないことには、先はない。失敗することを恐れたくないのに、くだらないプライドが邪魔をする。情けない思いをしたくないと身体が叫んでいる。私はしなくてはならないだろう。数多の失敗を。そうできる時間がないから、歳を重ねたというのかもしれない。年齢のことを見て見ぬ振りをするのであれば、自分に失敗することを許し、周りも許し、平気でいないことには、どうにもならないだろう。失敗することを恐れると、人は歳をとるのかもしれない。その点においては私は老人とさえ言えるかもしれない。
 「若々しい」という言葉はいつも褒め言葉であるわけではない。ある種の非常識を私は背負っている。非常識な人間には、非常識な生き方があるのだろう。賭けに出たくないとはそういうことを危惧している。かといって「安定」なんて言葉、私に似つかわしいのだろうか。
 どう生きていくのか、見ものだ。わくわくしてる。生きることはできる。問題は、どう生きるかだ。

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