喋ることのなにかしら

 人通りの少ない道に、人が倒れている。
(大丈夫ですか? 誰か呼ばないと……人が通らないだろうか)
 あいにく誰も通らない。こうなる日をずっと恐れていたのだ。誰も助けを呼ぶことができない。声をかけることもできない。家まで走って助けを呼ぶか? 筆談道具はあるが、チャイムを押しても、人は出てこないだろう。誰も喋らなければ、ただのピンポンダッシュになってしまう。
(大丈夫ですか?)
 そう言っているつもりで倒れている人の身体に軽く触れてみる。……起きそうにない。携帯は持っているけれど、私は、喋ることができない。どうしようもないかもしれない。とにかくチャイムを連打するか? 緊迫に押せば誰か出てくるかもしれない。依然意識を失ったままで、人が倒れている。どうすればいい? という問いばかりが浮かんで、答えが出てこない。このまま見捨てるわけにもいかない。こんな人通りの少ない道では次にいつ人が通るかなんてわからない。
 緊急事態なんだ。なんとも言ってられない。私は一番近くの家のチャイムを連打した。誰か居ろ! 居てくれ! しかし出ない。誰も居ないのか。とにかく人が出るところまでチャイムを連打しまくるしかない。
 しかし、近所にはどの家にも人は居ないみたいだった。どの家のチャイムを押しても、反応がない。こんなに必死にピンポンを連打したら怖がられるのかもしれない。どうすればいいのか。
 だんだんと自分の裡に不甲斐ない気持ちが芽生えてくる。
 喋れないことは、ずっと、自分の問題だと思っていた。でも、そうではなかった。人に迷惑をかけることだってある。それが今なんだ。私はこの人を救えないかもしれない。もしも、喋れたら、全く違う結果になっていたかもしれない。せめて、救急車は呼べるだろう。声を掛けたら起きるかもしれない。誰かを呼ぶことができたかもしれない。そのどれをも私はすることができない。
 自分を憎む暇もなく、焦る気持ちばかり先行してくる。
 喋ることができないことがこんなに悔しいことだったなんて。今までずっとそれを押し隠して生きてきたのだ、私は。そのことを悔いている。
 どうしたらいい?!
 どこかの家の玄関の前で立ち尽くしていると、他の家から人が出てきて、倒れている人を介抱し始めたのだった。
 助かった。
「チャイムを鳴らしてたのは、あなたかしら? 今、救急車を呼ぶからね」
「ありがとうございます……」
気がつくと私は声を発していた。怪我の光明なのか、私は再び喋ることができるようになったのだった。それは、実に9年ぶりのことであった。
※この話はフィクションです。

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