イメージの相手と本当の相手

 自分の作り上げた相手と、本当の相手。たぶんぼくが実際に向き合ってるのは、自分が作り上げた相手だって思う。相手と実際にいる時間よりも、相手を想ってる時間の方が圧倒的に長い。人間同士の齟齬はそこから生じるんだろう。自分の作ったイメージに人は縛られる。でも実際はそのイメージ通りとはいかないこともある。大抵それはイメージでしかない。
 向き合うってことはイメージと向き合うんじゃなくて、相手その人、本人と向き合うってこと。実物の人間と向き合うということ。それを避けた瞬間に、食い違いは生じる。たぶん、必ず。
 この人はこういう人だ、と規定した瞬間からその人は規定から外れてく。時間とともに、エピソードとともに。
 だから人間は面白いんだけど、だから厄介だ。
 きっと君はこうすると思ったよ、ということの確かさは、簡単には得られない。外れると思うべきで、そうでなければ、相手が自分をどう思われているのかに合わせているのかもしれない。
 そう思ってしまうのは、ぼくが人を信用していないからかも。
 かく在るべきという人間像を構築することが正しいことなのか、今のぼくには不明なんです。でも、そういうものを着込んで人は生きているし、たぶんぼくだって何かを思われながら生きている。そのことはたぶん拭えない、一生。
 誤解や齟齬を笑って許せる関係ならいいけれど、いつもそうとは限らない。自分の着込んでいるものをいつも更新できるわけでもなく、ただただ誤解は降り積もってく。
 大事に思うんなら、定期的に更新することだ。相手を。自分の知っている相手が、いかに相手ではなかったか、知るでしょう。でも、相手にとってはそれがあなたの全てで、あなた自身なのだ。
 自分ではない何かに向き合われてる感じはとても気持ちが悪いと私は個人的に思う。仕方ない面もあるけど、私と向き合わずにイメージと向き合っていると思うと、私は悲しくなる。そこには私とはほとんどなんの関わりもなくて、ただ固定された現像(げんぞう)があるだけ。それを愛すことは勝手だけど、それは私ではない。イコンに毒されすぎ。
 現象としての私と向き合うのか、私自身と向き合うのか。現象と向き合うのはとても安易だし、たぶんあなたは傷つかずに済むのだろう。だってそれは幻。自分の良いように解釈し、作りあげることができるのだから。でもそれは逃げでしかない。
 人と関わろうと思うのなら、信頼したいと思うのなら、人をきちんとみて、触れ合って、関わって、言葉を交わし、いろんなことを知るべきだと思う。顔一つとっても、態度一つ、言動一つ、全ての実態がその人を現している。そこから逃げてはいけないんだと思う。

 自戒を込めて。

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