風邪 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 9月 26, 2017 「風邪ひーた。来て、今すぐ」「やだよ。無理」「なんで」「無理だから。もう電話しないで」「わかった。だから来て」「行かないって」「なんで切らないの」「別に。切ってよ」「やだよ。声聞いてたいんだ」「……。」「なんか喋ってよ」「……。」「俺もう死ぬかもよ」「ふーん。じゃあ行くわ。」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
寝付けない私に、母が話してくれたこと 10月 02, 2017 寝付けない私に、母が話してくれたことには。 「大人時代の方が楽しいのよ。子供時代も楽しいけどね。本当よ」 「欲しいもの買えるし、美味しいものを好きに食べられるし。いろんなことが自分の思い通りになるのよ」 「そうね。すべての大人がそうではないかもしれないけど、これからのあなたの振る舞い次第では、いろんなものが手に入る人生になるのよ」 「お母さんたちは運も良かったけど、努力もしたのよ。すべての努力が報われたわけじゃないけれど、努力しない人が報われるわけじゃないのよ」 「あなたは、まだピンとこないでしょうけど、自分のしたことで人に認められるっていうのは、とてもうれしくて、誇らしいことなのよ」 「褒められるっていうのも似てるけど、ちょっと違うの。認められることでいろんなことが良い方へ進んだり、自信を持てたりするのよ」 「いろんなことを自分の責任でやっていくってのは、楽しいことなのよ」 「しなくてはならないこともあるけれど、そういうことも知恵次第では楽しいことに変えられるのよ。本当よ。今つらいことも、工夫次第で楽しいことに変わるのよ」 「そういう知恵を身につけるといいわよ。学びなさい。学校の勉強だけじゃなくて。いろんなことを」 「それにね、大人になったら、人を愛する歓びを知ることができるのよ。相手が自分をどう思おうが構わない。ただ自分はこの人のことを愛してる、この人の為になりたい。そう思って実際にいろんなことができるのは幸せなことなのよ」 「そうね。いろんな人に認められる人間になりなさい。人をまっすぐに愛せる人間になりなさい。そうしたら、すこしは幸せになれるかもしれないわ」 続きを読む
どう思われてもいいという思考 8月 11, 2017 自分をどう思われたいと思っているのか、考えてみたいと思う。わたしにとっての表現ってなんなんだろう。それを考えようと思ったきっかけは服装について考えたからだ。 最近よく逢う友達は、わたしと違ってとても服にこだわっている。本当に一緒にいるのが申し訳ないくらい。わたしは服にこだわりがないし、防暑防寒できたらそれでいいという感じなので、ほんとに"ひどい"格好なのだ。つまり、人にどう見られたって構わないということになる。見た目で判断するなとも思ってるだろうし、判断されたくないとも思ってるはず。それって本当に身勝手な考えだと思う。 人はどうあってもまず見た目で判断するし、中身は長いあいだ接してないとわからないことだから、どうでもいいということは多いだろう。体裁が大事だというのは大袈裟だけど、それでまず判断されることは多い。人にどう思われようが関係ないという思考は、かなり"ヤバい"。 つまりわたしは表現をそう捉えているということだ。表現したことを、どう思われてもいいと。一緒に遊んでる友達にどう思われてもいい。書いた文章を読んでる人にどう思われてもいい。つぶやきを読んだ人にどう思われてもいい。撮った写真を見た人にどう思われてもいい。潔いように見えるけど、実際にはそこに気を使っていないということでしかないと思う。自分を晒すことを善と思ってきた節があるけど、素材のまま出したって美味しくないし、オモシロクもない。味付けが必要である。 どこか投げやりに人にどう思われてもいいという感覚に蝕まれている。どう思われているかに気を張ることに慣れていない。そう意識し続けなければできないと思う。根底から自分というもののなにかを変えないとできないことだと思う。つまり「すべての振る舞い」「すべての表現」「すべての人に見えること」に気を巡らすということだ。それを自然にできるように習慣にすることはけっこう大変なことだと思う。意識の問題だけど、変にナルシスト的になるのは違うし、奇抜な格好、奇抜な表現、奇抜な発想をしたいというわけでもない。一見普通に見えるものの中に、この人はわかっているという何かがあるのが理想。わたしは普通の人でありたいし、あくまで平凡な人である。そのことに劣等感も全然ない。目立とうとか、よく見られたいというのであればこういう表現はしない... 続きを読む
つっかえたものを取ること 8月 15, 2017 俺、敗北を受け入れられていない人だ。宙ぶらりんのまま、いろんなことを病気のせいにしている。そして納得してないんだと思う。だからグズグズするんだ。病気になったことは仕方ないことだけど、この病は自分が望んだものかもしれない、と思ってる限り、ぼくは前に進まないのだろう。 あの頃はそれなりに情熱もあったはず。わたしは本気だった。でもダメかもしれないとも思ってた。自信がなかった。でもやろうと思ってた。その矢先に病気になった。わたしにとっては好都合だったかもしれない。やらないうちに諦める理由ができたのだから。そうしてわたしは病気になったことを受け入れたのだと思う。そこがわたしの弱いところ。 宙に浮いてしまったあの頃のあれを葬り去らなければいけない。諦めたわけでもないのに、諦めたことになってしまっている、いろんなことを。チャレンジする前に病によって退場させられてしまった、あれらを。 つまりうまく消化してないのだと思う。人生を。それでいろんなことを見失ってしまった。失われたさまざまな感覚を取り戻すことは容易ではない。 この病はきっとわたしが望んだものなのだ。この病さえなければわたしは自分のしたいことに挑戦できたのに(、でも退場してしまった)。『無念』という気持ちを病気の所為にしている。それってすごく情けなくて、かっこ悪いことなんじゃないか。しゃべれないうちは、しゃべれないことをいろんなことの盾にできる。何をするにも熱心になることを回避できる防波堤になる。障害があるから、わたしはやらなくていい。できることをすればいい。仕方なくすればいい。人生を楽しめなくて当たり前。友達少なくて当たり前。人との交流の感覚を失うのも当たり前。そう言ってるうちは先に進むことはない。一生ない。 納得がいってないと同時に、助かったと思っている自分を粉砕しないことには、わたしに未来はない。複雑な気持ちを抱えている。難しい。挑戦することが、怖くなっている。また倒れるというんじゃなくて、またなにかを言い訳にして逃げるんじゃないか、と。情けなく逃げる自分が嫌なんだ。 諦めることを、きちんと諦めること。それをしない限り、次にいけない。ぼくはずっと宙ぶらりんのまま。諦めるために、熱心に言い訳せずにやりきることでしかない。そうでないと、報われない。 報われるために生きてるわけではないけど、自分... 続きを読む
人とひとが出会うことの表現の可能性を知りたい 8月 16, 2017 人とひとが出会って、了解し合う感じ、何かが始まる感じ、存在を許し合う感じ、そういうことを具現化したものを欲してる。 人とひとが出会うことで起こるさまを表現しようとすると「化学反応」みたいな言葉しか出てこない自分が憎い。なんだか決まった結果しか出ないみたいじゃないか。思うに、その結果は無限にあり得て、仲睦まじくなる可能性だってあれば、その場で喧嘩別れする可能性だってある。なんだって起きるかもしれないし、なんにも起きない可能性だってある。それはいろんな要素によるし、それを科学実験のように単純化した瞬間に壊れる何かがある。 だから(科学とは違って)面白いのだと思う。 その、いろんな要素を解剖しようとは思わないけれど、小説や映画ではもっともらしい何かが提示されているのだと思う。そうでなければ、監督や作家はトマトをぶつけられるのだろう。絵や音楽や文字などの表現によって、それらは成されている。みんなそれぞれに危うい橋を渡っているに違いないと思う。それは物語の、というか人とひとが出会って起こったことの、説得力を彩るものであることは間違いない。 人とひとが出会うことによって起こりうること。そのすべての可能性を網羅することはできない。想像すらできない。その一つの出逢いによって人生が大きく変わることもあるし、奈落の底に落ちていくことだってあるのだろう。事象でしかわたし達はその出会いを感じることができないけれど、出会ったことそのものには本当にはなんにもないのではないか。ただ人が目の前にいるというだけでは、おそらく何も起こり得ず、人間が人間として在って、働きかけ、リアクションし、そして作用するから何かが起きるのだ。なんだか結局「化学反応」に戻ってしまった。どうもわたしは根っからの理系らしい。 一意的に見た瞬間にこぼれ落ちるもの。こうなるはずだという「野暮」な考え。目論見はいつだって破綻する可能性を帯びている。だから面白い。単純化した瞬間にこぼれ落ちるなにかをつかみたい。それはきっと些細な事で、どう在っても表現に耐えないことなのではないか。こう在ったからこうなった、こう行動したからこうなった、そしてこうリアクションした、そしてこうなった。そのすべての可能性を把握してみたい。 両親を見ていると、互いに許してるな、という感じがとっても伝わってくる。だからきっとおそらくな... 続きを読む
言葉の力を思考/施行する 1月 01, 2018 言葉で表現してわかること。上から順に書いていき、上の文字が下の文字を規定する。上に意味があるから、下も意味を持つ。どれ一つとして欠けても意味を為さない。無駄がなく、練られた言葉は、強く響く。 書く言葉は試行錯誤できる。納得がいくまで練り上げることができる。話す言葉ではこうはいきそうにない。上から書いていく。最後まで来て読み直す。自分の表現したいことが現れているだろうか。これを読んだ人に自分の伝えたいことが伝わるだろうか。効果的に伝わるだろうか。人の中に何かを響かせることができるだろうか。ぼくの知恵は発揮されているだろうか。それは紛れもなくぼくの言葉だろうか。 書いていくうちにそこにこの言葉が必要だとひらめく。それを順番に言葉にしていく。とっさに浮かんだ言葉も、感覚的に入れた言葉も、一緒くたになってこの言葉の集まりに参加している。それぞれに作用しあってそこに存在している。書きあがったものは、なんとなくまとまっているかのように見える。でもそれが効果的なのか、ぼくにはわからないでいる。 いつもうまく言葉にできているとは思ってない。いつだって不甲斐ない思いをしてる。何かが足りてないような気がしてる。言い残したことがあるんじゃないかといつも不安。もっと効果的に伝える方法があったんじゃないか。ぼくが書かなくてもよかったんじゃないか。 書いて伝えるということには、魔法がある。文字にすることで印象を残すこともできる、文字を残しておくこともできる。その文章は今でない、いつかその人を救うかもしれないのだ。 他ならぬぼくが知恵を練りこんで書いた文章を、ぼくの大事な人に贈るのならば、それはぼくにしか書けない文章である。 *** 人を説得するとき、言葉を書く。自分を説得するときにも。それを読んでもらうことさえできたら、うまくいくかもしれない。読んでもらえないことにはどうしようもない。誤読だってされるだろう。できるだけ、わかりやすく書く。論旨明快に。 相手がぼくの意図に気がつくとき、気持ちの良いように書きたい。頭の中を解きほぐすとき、言葉はとても有効だ。言葉を以って考えない人は少ない。だから言葉で解く。隠れた自分を見つけたとき、懸命な人にとっては心地が良い。ぼくの文章を読むうちに、そういう気持ちになってほしい。 淀みなく書かれた文章はすらすら読める。つぎつぎ... 続きを読む
正しいからしても良いと思うと、間違っていることに気がつかない 9月 01, 2017 ──なんともなしに彼がしゃべり出したこと。正義と生き過ぎた正義についてのなにがしか。 「自分のしていることが正しいと思う時、その正しさの裏に過ちが潜んでる。」「そうかなぁ。正しいことは正しいことでしょ」「正しいからこれをしても良いと思い過ぎると、自分が間違っていることに気がつきにくいじゃない?」「うーん、なるほど」「いつでもどこでも正しいなんてことはたぶんなくて、ある時には正しかったことが、別の時には正しくない、ということはありそう」 ──朝食の目玉焼きに醤油をかける。朝からなんでこんなこと言い出すのこの人は。 「なんにでも醤油かける人みたいな?」「ちょっと違う気がするけど、たぶんそう。醤油をかけてうまくなるものとそうでないものがある」 目玉焼きに醤油をかける派の私は彼とこの点で合わない。彼がケチャップを手に取るのを見つつのたまう。 「悪事を暴く報道がいつも良いこととは限らない、みたいなこと?」「難しいことだけどそうかもね」「なるほど。相手の正義が自分の正義とは限らないし、社会の正義が個人の正義とは限らないよねぇ。」「それぞれに事情がきっとあるし、それが透けて見えないと、話が食い違うし理解し合えない。理解しようと試みることはいつも必要だよ。話が効かない人でない限り。それがたとえお金のためであったとしてもね」 ──絶対に許されないことなんてあるのかな。私は思う。 「『正義は我にあり!』と言って人を殺すのは間違ってるのよね、たぶん」「いろんな事情があるんだろうし、死をもって償え、と言うのはやっぱ極論だよね。そこには正義はない」 ──朝からこんな重い話を……。ウチはいつもこんな感じで彼が会話の主導権を握り、私には一銭の正義もない。いつも彼が正しいみたいな雰囲気になる。 「……ヒーローはいつも怪獣を殺しつつ、ビルを壊してる、みたいなことか」 続きを読む
補助輪 1月 02, 2018 置かれた補助輪。はしゃいだ子供が乗ってくる。 *** 初めて自転車に乗れた日のこと。なんとなく乗れるような気がして、父に頼んで外してもらう。補助輪を外すには道具が必要で、それは自分一人ではできないことだった。なんとなく、それだってできそうだったのだけど、だってねじを回すだけだから。だけど、父に頼んだ。乗っているところを見て欲しかったのかもしれない。 ぼくは自転車に乗りたかった。補助輪はついていても、ついてなくてもどっちでもよかった。だからたぶん一年くらいつけていたと思う。そうするうちに上手くなっていって、補助輪なしでも走れるようになっていた。いつの間にか。それは実は父の調整の賜物で、父のレールの上にいつの間にか乗っていたわけだけど。 ぼくは当たり前のように父の前で補助輪なしで走って、なんだか誇らしかった。補助輪のシャラシャラ云う音をさせずに走ることができたから。気にしていないふりをして、やっぱり気にしていたのかもしれない。情けないという気持ちにはなっていなかったけど、なんとなく負い目を感じていたのかも。それは父がなるべく補助輪を外そうと工夫したことから感じる何かだったのだ。 言うなれば、社会性のようなもの。 人は社会に少しずつ適応したり、外れていたりする。人と違うことを不安に思ったり、誇らしく思ったりする。どっちが良いってもんでもなくて、ただ、幸せだったらそれで良いんだと思う。 補助輪がない方が曲がりやすい。友達にもばかにされない。シャラシャラ云わない。 自分の感覚として手に入れたものは失われない。成長の感覚。誇らしい感覚。烏合する感覚。 *** 少年は補助輪を置く。誇らしい気持ちと、うれしい感触と、かりそめの自由を手に入れたのだ。その自転車で、どこまでも行くのだろう。 続きを読む
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