9月中に緘黙症状を寛解させる

*今日決めたこと。
 9月中に緘黙症状を寛解させる。できる。あらゆることを尽くすことになるけど、できないはずはないと思ってる。その後のことも考えているし、未来は未来だけど、できないことではない。とにかく、今月は喋ることに集中する。喋るように自分を持っていくことに注力する。そのためにできること、するべきことを、とことんする。9月は30日までだから、その日までに普通に喋れるようになることを目標にする。目標というか、義務くらいにしたい。そうあるべきだと思う。

*なぜ喋りたいのか。
 なぜなら、人と関わることをもっとしたいからだ。私は人が好きなんだと思う。もっと人間というものを知りたい。人の面白さを知るためには、喋ることは必須であると思う。喋る以外に人と人が面と向かって和むことはない。親しくなることはない。障害は障害だけど、やはり障害だと思う。
 ここ数日、人と人が出会うことをテーマにした文章を主に書いてきたけれど、これらは私が人のことを想うきっかけになった。
 私は人が好きなのかわからなかった。嫌いだとも言えるし、好きだとも言えたと思う。どちらかというと嫌い寄りだったかもしれない。人と交わることで起こる想像は全て嫌なことだった時期もある。
 だけど、必ずしもそうでもないのだな、と思うようになった。それは文章を書くことでそう思うようになったのだ。これは明らかなこと。文章を書くことが楽しいのは、人のことを知っているからだ。人のある側面を切り取ることに、私は喜びを感じる。様々な妄想や、想像は、人と接していたから生まれたことだ。全てはその萌芽を得ていたから書けたことだ。
 だから、書くことが楽しいってことは、人と接するのが楽しいのと同じなのだと思う。というか、そう解釈することにした。人と接することにはいろんな面がある。そういうことすべてを書くことが私の喜びだと思う。人と接することなしに、文章を書くことはもう適わなくなった。ネタ切れとかじゃなくて、好奇心はもうそこまできているということだ。書こうと思えばいくらでも書けるが、人と接した方が書けることは目に見えているし、その方が楽しいということもわかっている。人と接していたから、書ける。人と接するから、書ける。そういう循環に入りたい。

*今(9/10時点)できていること。
 医師との問診では喋っている。病院の会計時にも生年月日と名前を言うことはできている。それ以外には病院で少し喋った程度。散歩中に鼻歌を歌うことはできる。病院以外ではほとんど喋った記憶はない。人前で病院以外で声を出したことは数える程度だと思う。

*喋ることをいかにして実現するか。
 まず、何を以って喋れないのかを考えるということ。その思考は今までもそうしていたようにこのブログでする。そのように思考することが一番効果的だと思うからだ。思考は日常にあるが、こうして言葉にすることの強さを私は知っている。
 腹をくくることは喋るのに必須であるように思う。意識として、そういう感覚を持つこと。そうなったのはここ数日のうちに起こったことが大きいけれど、詳しくは書かない。とにかく、このままではよくない、と思ったのだ。
 私は自分の才能を活かすべきだと思う。自惚れでもなんでもなく、自分を活かすことのできる社会がどこかにあると信じている。才能というのがおこがましいなら、能力でも技術でも脳みそでも体力でもなんでもいい。とにかくこの身体でできるはずのことを、私は不十分に実行している。社会に還元する必要は必ずしもないが、そうできるのならそうした方が気分がいい、ただそれだけであると思う。
 ここ何ヶ月か、あるいは今年に入ってから、いろんなことが見えるようになっている。いろんなことを考えることができる。それは身体をそれなりに定期的に動かしているからかもしれない。

*具体的に考える。
 なぜ医師には喋ることができるのか。信頼なのだろうか。喋っても何も起きないことが寄与しているという気もする。
 喋ること自体に何かあるのだろうか。緘黙というのは統合失調症における緘動の一種だと思ってる。過剰な鎮静の結果、そうなっているのだと思われる。
 そもそも統合失調症であることが怪しいのだけど。それは主治医の見解であり、私が本を読んで学んだことからしても、少し違和感はある。とにかく真っ当な統合失調症患者とは言えないと思う。ただ統合失調症というのはある程度の幅を持った病名であるらしいので、なんとも言えない。ただ事実として主治医も私が統合失調症であることを疑っているということ。

 よく自分で思うことは、甘えているに過ぎないのではないか、ということ。そう思う瞬間にそれをかき消して、そんなことはないはずだ、と自分に言い聞かせる。そう思ってしまうことは、死に繋がるからだ。
 喋ることで人を傷つけたとか、あるいは傷ついたとか、著しい恐怖を感じたとか、そういうことはないと思う。つまりトラウマ起因ということは考えにくい。トラウマの記憶を隠蔽するということはよくあることだそうなので、その点については今のところ考えないし、ほじくり返したいとも思わないが。

 覚悟を決めたからといって、喋るようになるわけではない。相手がいなければ喋らないだろう。というか、相手がいるから「喋る」という行為になりうるわけで、そうでなければ、それは「独り言」である。私がしたいのは「喋る」ことなのだ。ということは私は家族や友人たちのことを人間として認めていないということにならないだろうか。私には私が真に何を考えているのか、わからない。

 私は文章を書くことで、自分を『解釈』し、『説得』していきたいのだと思う。

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