緘黙であることの後ろめたさ

 ある種の後ろめたさがずっとある。それは、喋ることから逃げているという感覚からくるものだと思う。
 別にわたしはサラリーマンしてないことに劣等感も抱いてないし、いい歳して恋人がいないことも、家族を養えていないことにも何も感じてない。そういう機会がないというだけの話だと思うし、今のところそれなりに幸せにやっているので特に思うこともない。ひょっとしたら、心の奥底に何かの火種は持っているかもしれないけれど、それは今のところ些細なことだと思ってる。
 それよりも、喋ることから逃げているという感覚が自分の中にある。ずっとある。喋ることには恐怖も不安もない、だけど、喋れない。それは病気だからだけど、それを病気のせいだけにしていていいのだろうか。おそらく薬を飲むことは寛解の助けにはなっても、寛解することには直接は繋がらないだろう。私が喋ろうということでしか喋ることはできない。
 9月の10日から緘黙を寛解させようと試行錯誤しているというか、意識しているけれど、自分を追い詰めるばかりで一向に喋る気配はない。せいぜいが鼻歌を歌う程度だ。自分を追い込むことで憂鬱になっている。鬱だとは言わないけれど、実際に睡眠時間は増えているし、QOLも下がっているように思う。生きていて楽しくないし、事実、朝起きるのがしんどい。起きることができなくなっている。無理やり起きている。とにかく楽しくないのだ。うまく自分をコントロールできなくなっている。
 こんなことなら寛解なんて目指さずに悠々自適に生きていたほうが楽しかった。この壁の向こうに拓けた土地があるとわかっていながら、それを一直線に求めることができないでいる。
 喋ろうと思って喋るわけではないと思う。そうする人間なんていない。ただ言葉は突いて出てくるものだ。自然と言葉が出てくるように仕向けたほうが早いって気がする。私は考えすぎなのだ。喋ることで人を楽しませようとか、自分が楽しもうとか、そんなことじゃなくて、ただ喋る。当たり前のように喋る。そうする以外にないって気がしてる。そうできたらいいのにな、と思う。
 逃げも言い訳もつらさも湧き出てくる思い出も後悔も、ただイイワケに過ぎない。自分をどうにかしないことにはどうにもならない。喋ることでしか喋れない。さんざ自分と向き合ってきたつもりが、何の役にも立っていない。私は私を包括し得ない。ただただアンコントロールなことに翻弄されているだけだ。
 Quality of Lifeが下がろうが、鬱になろうが、とにかくこのしんどさを乗り越えないことには、喋れるようにならない。すべての言い訳を排除して、すべての苦しみを包含して、思い出と後悔を後回しにして、それで初めて本質と向き合える。そしてそこに立てないまま、諦めそうになっているのでこの文章を書いている。
 本当にこの道の先に幸せが待っているのかわからないでいる。はっきりそうだとは言えない自分がいる。私は障害者としてこの9年間、いろんなことを免除され、許され、生きてきた。それを捨てて、本当に幸せなのか、わからないでいる。どうあるべきなのかわからないのだ。喋ったからといって何かが変わるわけでもないというなら、喋る気にもなるものの、そうもいかないだろう。きっと、何かが変わる。それが本当に是なのか、私にはわからない。そういう不安を持っている。喋る恐怖といえばそういうことなのだと思う。それがずっと後ろめたさとして残っている。たぶん心の何処かで人と会うことは本当に楽しいことなのだろうかと疑っている。それを払拭するための映画であり、小説であり、物語であり、創作であり。
 喋れる人がみな幸せでないのと同じように、喋れないこともまた不幸せではないとも言えるって思うんだ。敢えて言えば、喋れたら幸せになれるかもしれないし、喋れないことは不幸せだとも言える。私はただ見えていないだけなのかもしれない。幸せに一直線に向かっていっていない。その得体の知れない、何ものかに翻弄されているだけなのだ。そしてそれもイイワケに過ぎないと思う。
 こうしてイイワケはいくらでも出てくる。いくらでも私は私を喋らないで済むように仕向ける。
 ただ喋るために喋ればいい。喋ることの幸せを享受したらいい。そのあとの幸せは自分で勝ち取るしかない。それは喋れようが喋れなかろうが、変わらない。喋れないままでは勝ち取る幸せは狭いものになる。それだけなのだと思う。どうせならば、広い世界から幸せを得た方が、幸せであると、私は考える。
 冒頭の話。そういう機会がないというだけなのがいかに問題なのか、私はわかっていない。今、本当に狭い世界に生きてる。
 もう此処は退屈。
 そう思えたら。
 私は大海を知らない。

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