一人でいても、味わえない喜び

 認められるから、僕はここにいるわけです。そうでなければ、ここにいない。人が何処かにいる理由なんて、そんなちょっとしたことで。それがわかっていないなら、人をほだすことなんてできない。その形としてのお金だったり、タスクだったり。
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 認めてる、ということをどうやって表現するか、ってそれは透けて見えるものだ。簡単に見抜かれるものだ。どう在ったって解ってしまうものだ。ちょっとした受け答えや、相槌、態度や、物言い、そんなことでこの人は私を認めていない人だということはわかるものだ。観察眼を磨くことだ。
 出会ったばかりで大事なことは、いかに早く認められるかということかもしれないし、それが全てかもしれない。人と人の関係って認める、認めてない、ということで完結できてしまうのかもしれない。
 「認める」ということの表現って、敬意もその一つなのかもしれない。
 敬意を失っても、認めることはできる、か。そうかもしれない。でも認めているということの表現を失ったら、人は離れていくだろう。それは敬意に代わる何かをしているということ。
 認めている、ってことがどういうことなのか、って? 認めることこそが人としての尊厳だろう。そこに「人」がいるということを認める。「もの」でなく、「人」がいると認める。それだけでいいのだけど、難しい人には難しいらしい。
 スレてる人は人間を「もの」として扱いがち。そういう人が近くにいるとろくなことないよ。さっさと離れた方がいい。
 どうやったら人に認められるようになるか、って? 認められようとあからさまな人は敬遠されがちになるかもしれない。かといって何もしない人間が認められるってことは多分ないし、それは若い君のためにならない。何かをして、それを認められることが一番だよ。何をするかは君次第だし、どのようにそれをするかも、大事なこと。同じことをしても認められることもあれば、そうじゃないこともある。そういうのをもしかしたら、人格というのかもしれない。
 とにかく、やれる限りのことをやり尽くして、見る目を持っている人を探し尽くすことだ。何処かにいるはずなんだ。それを探し続けろ。そして自分にできることをやり尽くすんだ。
 人に認められるということは一人では決してできない。誰かがそばにいるから可能なことだ。井の中の蛙は誰からも認められる機会はない。誠実な人にとって、誰かといることは楽しいことのはず。それに応えてくれる人さえいたら。もし君が誠実で、不幸にもそうなっていないなら、そうなる場を探すしかないのだ。それを見つけられるかどうかも人格なのだ。
 人生は、それが全てだと思う。
 人に認められ、人を認め、生きていくんだ、僕たちは。

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