怒鳴り声についての一考察
「恫喝」という言葉がある。怒鳴ることはその言葉とつながっているように見える。だけれど、ただ怒鳴るという人もいるのかもしれない。自分の気持ちの表現としての怒鳴り。そうしなくては伝えられない何か。しかし、どんな時でも人は怒鳴られるのは嫌なものだ。怒鳴り散らされるのはもっと嫌だろう。恫喝はできたら一生お目にかかりたくないものである。 怒鳴ることのおびやかされている感じというのが私はとても苦手だ。得意という人はいないかもしれない。平気だという人は何かが麻痺しているか、自分も怒鳴り合いの当事者になっているに過ぎないのではないか。自分も怒鳴っていれば、人の怒鳴りは気にならないことが多い。自分をそうやって無意識に正当化するのだ。だから、人が怒鳴っている時、自分も怒鳴ってはならない。馬鹿にするのは馬鹿のすることというのと同じ。相手と同じ土俵に立ってはならない。 感情が昂ぶるとつい大声になる、という人がいる。そうすることでうまくいってきた経験があるからなのか、単に昂ぶってしまっているだけなのか。感情の発露とともに声がでかくなるのである。そこは自動的なのだろう。そうすることでフラストレーションを発散しているのかもしれない。そういうことは一人でやってもらいたいと私は願う。何かを伝えるのに怒鳴る必要なんてほとんどの場合必要ないはずなのだ。 別に私はこの文章で怒鳴り散らす人間が愚かであると言いたいわけではない。ただ怒鳴ることについて考えてみたいと思っただけだ。 人を自分の思う通りに動かしたいとき、恫喝する人がいる。相手を怯えさせて言うことを効かせようという人だ。そこには感情の発露もあるだろうし、その方法がうまくいくというある種の無意識の計算もあるのかもしれない。怒鳴る人はそれがうまくいったからそうするのだろう。怒鳴ることが死刑に値するのなら、誰も怒鳴らない。怒鳴ることが効果的だと暗に思っているからそうするのだ。 怒鳴ってしまう、ということは自分に自信がないことの現れなのではないか。怒鳴らなくても伝わることを、怒鳴ってしまう、あるいはあえて怒鳴るということは、そうしなければ受け入れてもらえないという気持ちの現れなのではないか。何もなくても伝わって説得することができるのであれば、あるいはそういう自信があるのであれば、普通は怒鳴る必要はない。恫喝する必要などないのだ。彼らは本...