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自分が情けない人間なのだということを呑み込んでから、すべてが始まる

 自分なんて大した人間ではないのだということを呑み込んでから、すべてが始まる。別に大した人間だと思ってたってわけでもないけど、なんか可能性があるとか、地力があると思ってたと思う。それだけの自尊心を抱えるだけの経歴だってそれなりにあったのだから。でも、そんな経歴だって今の自分を省みたらなんの役に立たないってことは、とてもわかる。だから、ぼくはしっかりしないといけない。これはどうやってこの先生きのこるかって話だ。  自尊心というか、やっぱり、自分のことを過大評価していた部分はあったのかもしれない。ある時期まではうまくいってたけど、ある時からはうまくいってない。社会的ないわゆるレールの上には、もう乗ることは難しいのかもしれない。どうしてもレールに乗るというのであれば、それ相応の努力と根性とやる気と、必要だろう。今の自分にそれがあるのかっていうと、よくわからない。どう生きるのか、って難しい問題。やるなら資格取るとか、いろんなことが必要だ。  レールが何の為にあるのかって、何も考えずに生きるとか、好きなものがないとか、才能がないとか、いろんなことの為にあるのかもしれない。別に自分が、考えて生きてるとか好きなものがあるとか才能があるとは言ってない。だけど、レールに乗らなくても何とか生きていけるだろうと、タカをくくっていたと思う。何となく、生きていけると思ってた。  今だってどうやったって生きていけるとは思ってるけど、それが幸せなのか、っていうのはわからない。どう生きるのが幸せなのかって、わからない。具体的には家族をどう持つかとか、どう死んでいくかとか、そういう人生設計のことだ。そういう設計を考える前に病気になってしまって、何も考えずに生きてきて、どうしようもなくなってしまったのが、今の自分であると思う。病気のことを言い訳にするのは嫌なんだけど。事実は事実だから。病気だとしても誇り高く生きてる人は実際にいて、自分はそうではなかった、情けない人生だったって思ってる。  いま、これからを、どう生きるかってことをきちんと考えたい。きちんと考えるのがどういうことなのかってのも知らないままにこう書いてるけど、何とかにじり寄っていけたら。考えることに食らいついていけたら。  どう生きることが、人として正しいのだろう。「誇り高い」って言葉を、安易に思いつきに使ったけど、今の気持ちとし

成長

「たね、うえたよ」 「そうだねぇ」 「あした、きはえる?」 「明日には無理だなぁ。まだ数年は掛かるよ。君が大きくなる頃には実が生るんじゃないかな」 「おいしい?」 「たぶんねー」 「うふふ、いいねー。おいしいの!」 「君と背ぇ比べだね」 「ぼくのほうがおっきいよ!」 「ふふ。今はね」 「ビワのほうがおっきくなる?」 「なるねー」 「ぼくのほうがおっきいもん」 「だねー」 「あしたには、はっぱでる?」 「うーんどうだろね。まださきかな?」 「おみずあげる?」 「そうだねー。あげすぎないでね」 「ぼくもごはんもたべるよ」 「君も大きくなるね。競争だね」 「トトロみたいにたいそうしたらはえてくるかな?」 「かもね。やってみたら?」 「うん! おとーさんもやって。ほら」 「とーさんも? いいよ。ほーら」 「でるかな?」 「今すぐには出ないよ。芽は簡単には出ないんだよ」 「ぼくもおっきくなるのにじかんかかる?」 「そうだねー」 「どのくらい? あした?」 「明日には少しは大きくなってるかもね。子供の成長は早いから。芽も出るかもね」 「いつたべれる?」 「うーん、実はまだ先だなぁ。君が大きくなる頃には食べられるよ」 「はーやーく、おおきくなるといーなー」 「待ち遠しいね。君もビワも」

自分の浅はかさを思い知ってる

 自分の浅はかさを思い知ってる。今更そんなこと思ってるの、と思う人もあるかもしれないけど、実際にそうなってみてはじめてわかることがある。それまで障害者だったのにある日からそうではなくなった。そのことにたじろぐ。というか、水をぶっかけられたような感触。  社会に於いての厳しさというか、しっかりしてる感じって、懐かしさもあったけど、悠々自適に生きていた自分にはやっぱりショックだったんだと思う。自分は甘かったと本当に思ってる。今になって、いろんな言い訳を思い出す。いろんなことを書いてきたけど、そのどれも、私にとって言い訳以外の何物でもなかった。この先、どうやって生きていったらいいのかわからないでいる。どうしようもないかもしれない。  喋れなかったんだから仕方ない、って言い方は、今の自分には正直きつい。だとしても、生きるべきだった。上昇志向でいるべきだった。私はただ自分の好きなように文章を書いていただけだった。そういう上を見ていない感はここにきて、アイタッて感じ。たぶん同い年の人の何十倍も低い位置に私はいる。超低空飛行だ。誰もこんな人間に手を差し伸べようとか、仲良くしようとは思わないだろう。簡単にそういうことは想像がつく。何より私には人にアピールする何かが何もない。いつの間にかそういう人間になってしまっていた。  親からでさえも、大丈夫だよと言われても、何がわかって言ってるんだという気持ちになるだろう。気休めだとしても。自分のことだって自分でよくわかっていないのに人に自分のことがわかってるとは思えない。自分を救うのは誰か。たぶん自分以外にいない。自分でなんとかするしかない。  冒頭に書いた「社会」という感じに恐れをなそうとしてる。遠慮がちになってる。こういう時に逃げ出さずになんとか立ち向かわないと、たぶん、一生このままだって気がする。いまが肝心で、なんとかしなくてはいけないのに、こんな文章を書いていていいのかって思う。  せめて、何か取り柄のある人になりたかった。人に誇れるものが何かある人はいいな。自分には何もない。熱心になることもない。エンジンを積んでない。努力もできない。ただ悠々自適に生きてくことしか今の自分にできないのかもしれない。のんびり生きてたって仕方ないのに。熱心になるのなら、その方がいい。でもその媒体は何もない。私には何もない。書くことしかやってこな

悲観的な自己観

 自信を著しく失っているのであえて書く。不安を煽るように、自分を叱咤するように。私は、強くなる。  何が不安なのかって、まだ言語化できていないけど、人間として自分はどうなのかってこと。今までずっと障害者として暮らしてきて、そうでなくなった瞬間に何もできない人、何もアピールするものがない人として社会に放り出されてしまった。出されてしまったというか、自分がそうして生きてきて、そうして飛び出ただけなんだけど。  それでも何かあると思って生きないことには何も先には進まないし、本当に何もない。自分にはそれを見出してくれるような人もないし、自分で見つけないと。何をアピールするかっていうか、そもそもどういう風に生きてくかってことからして、もう分かんないんだけど。でももうすでに閉じられた道は多いし、なんだってできるわけでもない。ただ、できることはまだある。  若いという特権を行使しないままにこの歳になってしまって、──そういう特権があるとしてだけど──これからできなくなっていくこととのせめぎ合いだって気がしてる。日に日にできなくなることは増えていって、あっという間におじいさんだ。おじいさんになれたらまだ良くて、そうなる前にどうにかなってしまうかもしれない。冗談じゃなく。だから焦ってる。若いうちにできることをしているだろうかって、そういう視点はずっとなかったから。もっと失敗したらいいし、情けない目にもあったほうがいい。若いうちにしかできないことをしておかないと、たぶん、私はダメな人間になる。  それに私はあまりにも人間を知らなすぎる。そのことを危惧してる。どんな人がこの社会にいて、その人たちはどういう風に自分の気持ちを持って、どういう風に気持ちを表現して、裏と表、本音と建前をどう扱ってるのか、そういうことに無頓着すぎる。親しい人にさえそういうことがわからない。  私は正直に生きてきたつもりだけど、そのことがいつもいいとは限らない。馬鹿正直とも言える。ちょうどいい嘘とか、人をいい感じにあしらうとか、そういうことが一切できない。  それに、私は、とてもつまらない人間かもしれないとも思う。自分でそう思うのだ。  確固たるものがあったらいいのにと思うけど、この歳になってそういうものが何もないというのは、やはり不安の種だし、何かにすがりたくなる。とにかく今の自分の生活の中で、自信

喋ることのなにかしら

 人通りの少ない道に、人が倒れている。 (大丈夫ですか? 誰か呼ばないと……人が通らないだろうか)  あいにく誰も通らない。こうなる日をずっと恐れていたのだ。誰も助けを呼ぶことができない。声をかけることもできない。家まで走って助けを呼ぶか? 筆談道具はあるが、チャイムを押しても、人は出てこないだろう。誰も喋らなければ、ただのピンポンダッシュになってしまう。 (大丈夫ですか?)  そう言っているつもりで倒れている人の身体に軽く触れてみる。……起きそうにない。携帯は持っているけれど、私は、喋ることができない。どうしようもないかもしれない。とにかくチャイムを連打するか? 緊迫に押せば誰か出てくるかもしれない。依然意識を失ったままで、人が倒れている。どうすればいい? という問いばかりが浮かんで、答えが出てこない。このまま見捨てるわけにもいかない。こんな人通りの少ない道では次にいつ人が通るかなんてわからない。  緊急事態なんだ。なんとも言ってられない。私は一番近くの家のチャイムを連打した。誰か居ろ! 居てくれ! しかし出ない。誰も居ないのか。とにかく人が出るところまでチャイムを連打しまくるしかない。  しかし、近所にはどの家にも人は居ないみたいだった。どの家のチャイムを押しても、反応がない。こんなに必死にピンポンを連打したら怖がられるのかもしれない。どうすればいいのか。  だんだんと自分の裡に不甲斐ない気持ちが芽生えてくる。  喋れないことは、ずっと、自分の問題だと思っていた。でも、そうではなかった。人に迷惑をかけることだってある。それが今なんだ。私はこの人を救えないかもしれない。もしも、喋れたら、全く違う結果になっていたかもしれない。せめて、救急車は呼べるだろう。声を掛けたら起きるかもしれない。誰かを呼ぶことができたかもしれない。そのどれをも私はすることができない。  自分を憎む暇もなく、焦る気持ちばかり先行してくる。  喋ることができないことがこんなに悔しいことだったなんて。今までずっとそれを押し隠して生きてきたのだ、私は。そのことを悔いている。  どうしたらいい?!  どこかの家の玄関の前で立ち尽くしていると、他の家から人が出てきて、倒れている人を介抱し始めたのだった。  助かった。 「チャイムを鳴らしてたのは、あなたかしら? 今、救急車を呼

Re:Write; 愛することの問答

 山頂にある巨石の前で、人が虚空に向かって喋っているのを、カップルは片隅で聞いていたのだった。 「愛とはなんなのでしょう。神さま」 「私は誰だって愛せる気がするし、誰も愛せないという気もするのです」 「私は優柔なのかもしれません」 「誰だってよい気がします。なんだってよいのです……。愛するに足るならば」 「神さま。愛するということを引き出させてくれる相手であるならば、私はそうできるでしょう」 「たまたま知り合った、たまたま気の合った人ときっと結ばれるのでしょう」 「私は真に愛されたいのです。そして真に愛したい」 「このいたたまれない気持ちのやりどころを、私は知らないのです」 「わからないことだらけなのです。どのように人と人は愛し合うのか。惹かれ合うのか」 「本当に愛するとはどういうことなのでしょうか」 「真の愛とはなんなのだ」 「神よ」  その人はそこまで言うと下山していった。  カップルは考えさせられたのだった。本当に私たちは愛し合っていると言えるのだろうか、と。それを考えさせるために、何者かがカップルの前にかの人を遣わしたのかもしれない。  その日の次の夜、正式にカップルは結婚を決めたのだった。山の上の問答を聞いたことが切っ掛けとなったのかもしれない。煮え切らない関係は、山上の問いによって、一気に進んだのだった。  ただこの人だと思い、互いの未来を受け入れることができる、その一点だったのだ。そういう人と出逢うということがそもそもの人生の不可思議で、宇宙の謎である。わからない。なぜこの人であったのか。でも、この人でなければならなかったのだ。なぜだかそう確信できるのである。  かの人はカップルにこそ幸せを授けてくれたのだ。愛とはなんなのか。それが解らないまま、愛し合っている。それは本能といえるかもしれない。人間にそもそも備えられた能力なのだ。  愛するということの本来は、神さえも知らないのかもしれない……。ただ愛し合う人だけが知っているのだ。

愛することの問答

 山頂にある巨石の前で、人が虚空に向かって喋っているのを、私たちは片隅で聞いていたのだった。 「本当に愛したら、本当に愛されるって、本当ですか、神さま」 「私は真に愛されたいのです。そして真に愛したい」 「愛するとは愛する気持ちを相手から引き出すことなのでしょう? わかっています」 「互いに引き出し合えば、愛し合うことができるのでしょう」 「そしてそのためには、自分にも愛されるに足る魅力がなければならないはず」 「それが私にあるのかはわからない」 「人が私の何に魅力を感じるのか、見当もつきません。そんなもの、あるだろうか」 「神さま。私は人に愛されるに足る人間でしょうか。とても不安なのです」 「このいたたまれない気持ちのやりどころを、私は知らないのです」 「わからないことだらけなのです。どのように人と人は愛し合うのか。惹かれ合うのか」 「本当に愛するとはどういうことなのでしょうか」 「愛するとは、許すということなのでしょうか、受け入れるということなのでしょうか」 「愛とはなんなのでしょう」 「私は誰だって愛せる気がするし、誰も愛せないという気もするのです」 「どんな音楽も、どんな演劇も、どんな文章をも、私は愛せるのです」 「私は優柔なのかもしれません」 「なんだって良い気がします。なんだって良いのです……。愛するに足るならば」 「人も同じなのです。愛することを引き出させてくれる相手であるならば、私はそうできるでしょう」 「そうであれば、誰だって良いのです。たまたま知り合った、たまたま気の合った人と結ばれるのでしょうか」 「真の愛とはなんなのだ」 「神よ」  その人はそこまで言うと下山していった。  私たちカップルは考えさせられた。なぜこの相手と結ばれたのだろう。私たちは本当に愛し合っていると言えるのだろうか。不穏な空気がそこに生まれた。私たちにそれを考えさせるために、何者かが私たちの前にこの人を遣わしたのかもしれないと訝しがってしまう。  その次の夜、正式に私たちは結婚を決めたのだった。山の上の問答を聞いたことが切っ掛けとなったのかもしれない。ただこの人だと思い、互いの未来を受け入れることができる、その一点だったのだと思う。そういう人と出逢うということがそもそもの人生の不可思議で、宇宙の謎である。私にもわからない。なぜ