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人間を描くということ

 今日はここ最近の所感を書きたいと思う。ちょっと長くなるかもしれない。  ここ数日の間に何回か、友達が歌ってる店に遊びに行かせてもらった。お酒を出して音楽を楽しむお店。お客さんが歌手を育てる雰囲気のある処。いろんな人が自分の夢を託してる感じがした。お店の人の感謝の気持ちがとても心地いい店。一人でいるとほっといてくれるから、自分としてはとても助かる。行きやすい。お店の人にもほんとに良くしてもらえた。久しぶりに母親以外の女性とコミュニケーションを取った。なによりハウスバンドのレパートリーが60s~80sの曲でどストライクだった。もっと早くに行けばよかったけど、無理だったかな。わたしは自信がなかったのだ。  今年に入ってから映画を頻繁に観に行くようになって、ちょっとずつ外に行く自信がついたように思う。それでようやくそのお店にも行けるようになった。友達がお店から離れてしまうので、最後ってのも踏ん切りをつけるのに良かった。背中を押された。  しゃべれないことの抵抗を低くするのは難しい。お店でも、友達や店員さんは話しかけてくれるのだけど、気を使わせてしまったと思う。筆談することの申し訳無さもあった。チャージを払ってそこにいる立場で、どういう態度をとるべきなのかわからなくなってた部分もあるかな。音楽はとにかく楽しんだけど。お店の人やお客さんとコミュニケーション取れたらもっともっと楽しかったと思う。その萌芽はあった。これから楽しくなるぞって感じの。  3回行って、2回目にボウズにして行ったのだけど、爽やかでイイですねー、と言ってもらえてうれしかった。というかなんでか昔からボウズ頭は褒められる。ずっとボウズでもいいくらいだけど、刈るのが面倒くさい。自分の、見た目についてはそのくらいのことでしかない。服装も含めてね。  特定の人でなくて、さまざまな、人、人間というものを知りたくなった。人間とはどういうものなのか、どういう時にどういう行動をするものなのか、知りたくなった。恋してる人。恋されてる人。音楽を奏でる人。自分の夢を託す人。応援する人。応援されてる人。いろんな人のいろんな気持ちが入り混じってて、お店はとてもいい空間だった。とにかく楽しかった。わたしは絆(ほだ)されていた。最初は音楽の虜になっていたのかと思っていた。でも、たぶん違う。それだけじゃない。わたしは人間というもの

お金を使うことで満たされるなにかを。

 だんだんと活動的になってきたのか、意欲が出てきているのかわからないけど、まさに金に糸目をつけないという感じで、つぎつぎと見境なく手に入れ、行きたいところにも次々と行っている。危うい感じがする。今のところ月の収入は上回っていないつもりだけど、このままいったらそうなる日も近い。欲望がとどまるところを知らない。  欲望ということでいうとあんまりぼくはセッセセしたい方でないと思う。好きな人とはしたいけど、誰とでもいいからなどとは全く思わないし、お金を払って奉仕を受けたいとも思わない。色の欲に限って自分を観察すると、ドライかもしれない。美人だとか、かわいいだとかあんまり関係ないしね。好みはもちろんあるけど、それよりも大事なことがある。  いまはお金を使うこと自体に快感を得ているのかもしれない。物を手に入れるとか、映画を観るとか、ライブに行くとかについて、その、し過ぎることの危うさを日々感じてる。この溺れ具合は、ヤバい。  自分への言い訳として、自分への投資だとか、持っていることにこそ意味があるだとか、満たされない自分を満たしたいとか、あるんだと思う。  お金との付き合い方を考えなくてはならない。使うべき時に充分にないのでは仕方ない。今は刹那的に生きてしまってる。自分の意志を殺してお金を使ってしまう。これは今の自分に本当に必要なものだろうか、という判断が麻痺している。必要でないものにお金を使っているつもりは全然ないのだけど、ちょっと危ういところにいる。  使うことによって学ぶんだよ、その料金だこれは、と言えてしまうかもしれない。なにごとも経験だ、と。それにしては反省もなく先も見ていないし、計画性もないのだが。  本当にしたいことはなんなのかってこと。そこに向かってるのかってこと。そのために自分をコントロールできているのかってこと。色欲をコントロールできなければ、犯罪者となる。わたしが今向かっている先も、似たようなものなのではないか。  欲望を抑えなくてはならない。身の丈にあっていない欲望を行使してる。買えば買うほどわたしは消耗してるし消費している。自分自身で何かをせずに、世界から何かを得ようと「だけ」しているのでは、本当の人生は歩めない。自分の技術をもって自分を満たさなくてはならない。そうしないことには、何も得られないし、発展もない。何も起きないし、感動もない。

なぜいま「あなた」とチャットしたいのか。その3

 自分がチャットしたい理由を喚いたところで、そうできるわけではない。チャットは一人でするものではない。  ひいては会話をしたいということなのだろうけど、それが病気的に適わないので、文明の利器に頼りたいということなのだと思う。わたしは会話を楽しみたいのだ。  なぜこんな表明をするのかというと、チャットしたいという気持ちを考えることは会話したいということを考えることであり、それがしゃべることに直結するからだ。自分の気持ちを噛み砕きたいし、増幅させたい。自分の知っていることを知りたいし、知らせたい。笑いたいし笑わせたい。会話の機微を楽しみたい。  情熱は情熱のあるところにしか花咲かない。簡単にしぼんでしまう。わたしに情熱があるのか自分ではわからないけど、わたしは自分で自分のことを何かある人間だと思ってる。少なくとも薪を持った人間だと。物事に前のめりにのめり込んでいく素養をもった人間だと思う。その準備をずっとしてきたのだと思う。病気で臥せっている頃から、早寝早起きして、ジョグ筋トレをして体力をつけて、文章を書いてきた。それは自分がそうしたいからそうしてきたに過ぎないのだけど。病人は普通そうはしない。客観的に見てそう思う。やや不遜だけど。  もっともっと、と思ってる。わたしはわたしに火をつけてくれる人を待っているのかもしれない。あるいはこの灯火を誰かに渡したいのかも。火を点けてくれる人をただ待つよりも、あるいは渡す相手をただ待つよりも、自分から動いたほうが手っ取り早い。というか自分から動かないことには人と出会うことなんてまずないのだ。どんどん人と会って、トライアンドエラーで凹たれず、この人だ!と叫びたいのだと思う。そうすりゃいつか出会える。もう出会っているかもしれない。  感化するのも感化されるのも、人間の作用として、すばらしいこと。一人では決してできないこと。その相づちが人生を変えるのだ。  わたしは人の反応をずっと怖がっていたのかもしれない。自分が如何様かわかってしまうのが怖かったのだ。しかし晒さなければリトマス紙は反応しない。わたしという人間が存在することによって、会話というコミュニケーションを考えるきっかけになるはず。少なくともわたしは今こうして考えている。この安易で直接的な相互作用について。  今の自分にはチャットでならそれができるのだ。「あなた」でな

なぜ「いま」チャットしたいのか。その2

 「いま」チャットしたい理由はなんなのか。この点を昨日の文章では考えなかったので、今日は考えてみたい。  ここ最近、人と会いたいと思うようになった。しかし、コミュニケーションに難のある自分には齟齬も多いし、人に気を使わせてしまうことも多い。互いにフラストレーションも溜まる。  昨日も書いたように会話の臨機応変力は乏しいと思う。適応力がないって思う。そういうことは元からそんなに得意な方ではなかったかもしれない。言いたいことを言って、言いたくないことは言わないという人間だったと思う。それは自分がガキだったからかもしれないし、そういう性分だったのかもしれない。とにかく学生時代からこっち、そういう能力をわたしは鍛えずにここまで来てしまった。たぶん歳相応のお喋りができない人間になっているのではないか。そう危惧してる。  (文章を書くこととは違って)会話となると反射神経とか瞬発力というのが必要になってくる。いま、このタイミングで言わないと意味がない、ということは往々にしてある。わたしはそういう能力に乏しい。なにも人を笑わせるということだけでなくて、説得したり、情報を伝えるのにも、効果的な言い方やタイミングなどがあるのだと思う。そういうことの乏しさを、ぼくは憂いてる。なにも障害のことを言っているのではない。コミュニケーション能力の向上、適応をしてこなかったということだ。  わたしはずっと逃げていたのだ。緘黙である自分を見て見ぬふりしていたと思う。このままならこのままでいいと思っていたと思う。仕方ないと思ってた。  友だちと会うようになって、それがすこしずつ変わってきた。自分の裡の変化を看過できなくなってきた。ぼくはいままで自分と向き合ってきたと思う。自分以外の人間と向き合うことの面白さを知りつつある。人を認めるということ。人に認められるということ。自分が人を許すこと。自分を許されること。自分ではない人間を楽しむこと。そういうことのマジックをわたしは思い知ったのだ。  いまの自分は人に認められるようなことを何一つしていないかもしれない。過去の遺産や幻によって認められているように見えるだけに過ぎない。いまのぼくを認めてくれなくてもかまわない。会話を通して、わたしは一歩先に進みたいと思ってる。その相づちは、きっとわたしを変えるだろう。チャットでならそれが可能だと思うのだ。会

なぜ、いまチャットしたいのか

 たぶん、人恋しいとかそういうことではないと思う。しゃべることの一足とも思ってない。ただ、今できることのうちで人と関わることの一端としてチャットが一番したいことなのだ、というのは間違いない。  学生のころ父と鈍行で名古屋まで行った時に、父が電車の中で知らない人と話をしていたことを思い出す。たまたま縁あって出逢った人と、取り留めのない会話をして、一期一会に別れてく。その楽しみを父はわたしに伝えようとしていたように思う。これこそが鈍行の楽しみなのだと言わんばかりだった。  わたしには会話の臨機応変力のようなものがもう、ほとんどない。とっさの機転が利かないという不安がずっとある。コミュニケーションにおいて対応できないのではないか、という不安があるのだ。なにか失礼なことや、言ってはいけないことを言ってしまうのではないか。会話するのなら、気の利いたことだって言いたい。そういう力はもうきっとかなり衰えている。  じゃあ、書くことはできているのか、というとたぶんできていないのだけど、会話となるともう絶望的にできない気がしてる。友達とLINEで会話したりするのだけど、それは友達だから許されているというだけで、それは今までの付き合いや知っていること共有してきたことがあるからうまく行っているように見えているだけなのだ。本質的な問題の解決にはなっていない。  書くことは楽しい。とにかく楽しい。毎日やったって飽きないのだけど、それをもう一歩進めたい。会話することは自分にとって、人間にとって、必要なことだと思う。  わたしが日々感じていることを、言葉にしたい。その方法は多い方が良い。いろんな手段でさまざまな感動を表現できるようになりたい。会話はいちばん基本的な手段である。塞がれた自分の口を開く代わりに、いろんな方法を試したい。文明の利器に頼るならチャットは会話の代替となりえる。だからそうしてみたいのだ。  わたしとチャットして得することって何があるんだろうなと思う。わたしが識っていること、感じていることは伝えることができる。現時点でわたしがなにを識っていてなにを感じる人間なのかを知らない人とはうまく会話できないかもしれない。それは不安。あなたがなにを好きで、なにを考え、なにを思い、どうしたいのか、という整理をするお手伝いはできるかもしれない。そんな大袈裟でなくても、ただわたしと話

幸せになるために生きているんだってことを忘れがち。

 幸せな気持ちになるために生きているんだってことを忘れがち。でも自分のする何もかもを自分が幸せな気持ちになるためにやってる人なんて、たぶんいない。幸せになるために人は生きているという命題はきっとなりたつ「はず」。幸せの形は人それぞれ違うし、幸せに向かって生きていく過程もみんな違う。蝶を追いかけているうちに頂上まで登る人もいれば、最初から山の頂上にいる人もある。あるいは道半ばで力尽きる人もあれば、自分から道を降りてしまう人もある。  なにが自分にとっての幸せなのか、ってことにそもそも鈍感かもしれない。そして幸せな気持ちは摩耗するかもしれない。きのう幸せだったことは、今日はもう幸せでないかもしれない。それが幸せなんだと気がつくことなく通り過ぎてく人もいる。誰にとっても幸せなことなんてあり得ず、ある人の幸せは、またある人の親の仇かもしれない。  いまが幸せなんだと、気がつくこと以上の幸せはないのかもしれない。どんな途上にいたとしても、いまが幸せなんだと思えるのなら、それが一番の幸せ。ハッタリでもデマカセでも感じたもん勝ちだと思う。牢獄には牢獄の幸せがあり、天国には天国の幸せがある。なにに幸せを見出すのかが、その人の幸せの感度を決める。幸せは摩耗し過剰になっていく性質がある。いい幸せというのがあるはず。  蝉が鳴いて笑う人もあれば、蜘蛛が動いても五月蝿いと怒るだけの人もある。幸せになるために生きているんだってことを忘れないで欲しい。どの道も幸せの途上にある。怒りを撒き散らす先に幸せがあるのならそうすればいい。することがいつか幸せに向かうのならそうすればいい。  世の中には幸せに向かっていると割り切れることばかりでなく、やらなくてはならないこと、せざるを得ないことも多い。「しかたないこと」をするくらいなら、わたしなんていなかったほうがいいのだと思ってしまう。人のためにすることだって、ひいては自分のためなのだと思う。本当にそう思ってる。人の笑顔はたしかにわたしの心を和ませる。それはわたしの幸せである。そうあるべきだ。  なんで生きてるのかわからない人よ。生かされてしまっている人よ。幸せに敏感たれ。なにをしたら幸せなのか考えよ。広くを知り、深くを知り、よく考えよ。我らは幸せになるために生きているのだ。

人を楽しませるということ

 初めて人を笑わせたのは、小さい頃、高島屋を「タカシ『ヤマ』」と言い間違えたってことだと思う。そのとき母は台所で洗い物をしていたのだけど、それをやめてしまうくらいの笑い方だった。今にして思えばなにがそんなに面白かったのかわからないのだけど、なにかが彼女の琴線に触れたのだろう。その時のわたしのRe:リアクション次第では、わたしの人生は全く違ったものになっていたかもしれない。もしかしたらとんでもないお調子者になっていた可能性だってある。  その時のわたしの反応はなんで笑っているのかわからない、という感じだったと思う。間違って言ったことには母の反応によってすぐにわかったのだけど、なににそんなに笑っているのかわからなかった。わからないのはいまと同じだけど、不明な理由は今とは違う。  人を笑わせる、あるいは楽しませるということが、当時のわたしには──とにかくわたしは幼かった──わからなかった。人を笑わせることが快感となっていたら、わたしの人生はずいぶん違っていたかもしれない。もっとお調子者ぶった人間になっていたと思う。  今のわたしは、しゃべっても人を楽しませることができないんじゃないかと思っているに違いない。しゃべる価値のない人間と思っているのかも。  実際には、そんなことはないはずなのだけど。今は母をジェスチャーや筆談で笑わせることは日常になっているし──それは彼女が多分に笑い上戸であるからかもしれないが。というか母は笑いたいのだと思う。当時もそうだったように──わたしがしゃべることが家族の幸福であることは間違いないと思ってる。少なくとも喜びであると。それは家族だけでなくて、友達も心配してくれていることだ。そうと理解してる。そこかしこにそういうことを感じてる。ありがたいことだと思う。  人を楽しませるという自信をつけるためには人を楽しませ続けなくてはならない。そこにしゃべることが絡むのなら、しゃべり続けなくてはならない。自信というワードは危ういので安易に使いたくないが、それは大事なことかもしれない。  結局のところわたしはこれを病気なのだと割り切りたいのだと思う。そうしてまた今晩もクスリを飲むのだ。そうすればまた安眠できるだろう。  わたしに何かがあるのは間違いない。つっかえ棒を取るきっかけをずっと探してるように思う。見つかるといいけど。心のどっかでは人を楽