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一人でいても、味わえない喜び

 認められるから、僕はここにいるわけです。そうでなければ、ここにいない。人が何処かにいる理由なんて、そんなちょっとしたことで。それがわかっていないなら、人をほだすことなんてできない。その形としてのお金だったり、タスクだったり。 ***  認めてる、ということをどうやって表現するか、ってそれは透けて見えるものだ。簡単に見抜かれるものだ。どう在ったって解ってしまうものだ。ちょっとした受け答えや、相槌、態度や、物言い、そんなことでこの人は私を認めていない人だということはわかるものだ。観察眼を磨くことだ。  出会ったばかりで大事なことは、いかに早く認められるかということかもしれないし、それが全てかもしれない。人と人の関係って認める、認めてない、ということで完結できてしまうのかもしれない。  「認める」ということの表現って、敬意もその一つなのかもしれない。  敬意を失っても、認めることはできる、か。そうかもしれない。でも認めているということの表現を失ったら、人は離れていくだろう。それは敬意に代わる何かをしているということ。  認めている、ってことがどういうことなのか、って? 認めることこそが人としての尊厳だろう。そこに「人」がいるということを認める。「もの」でなく、「人」がいると認める。それだけでいいのだけど、難しい人には難しいらしい。  スレてる人は人間を「もの」として扱いがち。そういう人が近くにいるとろくなことないよ。さっさと離れた方がいい。  どうやったら人に認められるようになるか、って? 認められようとあからさまな人は敬遠されがちになるかもしれない。かといって何もしない人間が認められるってことは多分ないし、それは若い君のためにならない。何かをして、それを認められることが一番だよ。何をするかは君次第だし、どのようにそれをするかも、大事なこと。同じことをしても認められることもあれば、そうじゃないこともある。そういうのをもしかしたら、人格というのかもしれない。  とにかく、やれる限りのことをやり尽くして、見る目を持っている人を探し尽くすことだ。何処かにいるはずなんだ。それを探し続けろ。そして自分にできることをやり尽くすんだ。  人に認められるということは一人では決してできない。誰かがそばにいるから可能なことだ。井の中の蛙は誰からも認められる機会はない。誠

代えられないうれしさ

「いいじゃない」「そう? ありがとう! あなたに褒められるとうれしいの」  第三者がそこで口を挟む。 「いや、こんなのダメじゃない?」  あなたはそのあと言ってくれる。 「いや、いいと思うわ。これとてもいいわよ」  私はうれしくなる。 「そう? わかってらっしゃる! 誰に褒められるよりあなたに認められることがうれしいわ」「そう? 誰だって一緒でしょう」  謙遜なのか、なんなのか。 「そんなことないわよ。あなたは私にとって特別。私のしたことであなたに褒められることが私のある時期の目標よ。こんなこと今だから言うけど」「そうなの!」「なんていうか、誰に認められるよりもうれしい人よ、あなたは」  誰に何を言われようと、この人に褒められたら、それでよかった。そのことだけを目指していたと言えるかもしれない。私の認めた人。その人に認められることに勝る喜びは、たぶんないだろう。 「……。」  黙るあなた。目がうるうるしてる。 「こんなこと口に出しちゃうのはあれだけどね」  なんだか戦友と共に帰国した人みたいだ。自分のしたことで誇りを持てる瞬間。自分で納得したものを、認めた人に認めてもらえる。そんな喜びは、外に向かって仕事してるから味わえること。一人でいても、決して味わうことのできなかった喜び。自分の達成感の上にある喜び。人に認めてもらえる、しかも、自分がこの人と思った人に。僥倖は人がもたらしてくれる。自分がしたからこそであるけれど、でもこの人が存在しなかったら、私はこんなにうれしい気持ちにはならなかったろう。どんな批判も、今だけは受け付けない。この人がこれを言ったのだから。

やる前から諦めているということ

 何をするにおいても、やる前から諦めているようでは話にならない。それは何かをしようとしているのではなくて、何かを諦めようとしているのだ。幸せになりたいという命題に対して、ハナから、いやきっとそうはなれないだろうと考えていたのでは、きっと私たちは幸せになることは叶わないだろう。  やる前から諦めている自分がいる。今の生活に諦めている自分がいる。幸せのためにうまく頭を働かせ、振る舞い、行動すること、そして運を天に任せることが怖いと感じているのだと思う。  うまく頭を働かせること自体が運であるように錯覚してしまっているかもしれない。思いつくことは「たまたま」であるかのように。思いつくことが必然となっていないかのように。そうあるべくして考えているという感覚が自分の中に希薄である。ある状況になったら、必ずそう思考するだろうか。たまたまであるとへつらっていないだろうか。そういう弱さを私は抱えている。どんな困難でも乗り越えることができる、思考して必ず突破できるという自負がない。いつもそうできているかもしれないのにも関わらずだ。それは謙虚なのではなくて、ある種の傲慢なのだと思う。  うまくことを運ぶためには、運に頼る割合を極力低くするべきだと思う。それは考えを思いつく運──それは実際には運ではないのだが──も含めて。多くのことを確定していく。確実にしていく。固めていく。運の要素をなくす、それこそがうまく生きるヒントかもしれない。思いつくということでさえも必然にする。  ある状況になった時に必ず名案を思いつくと、盲信する。思いつかなかったことなんてないのだ。いつだって誠実に、謙虚に、私は思いついてきたはずなのだ。なのに、諦めようとしている。うまくいかなかったとしたら名案を思いつかなかった所為ではなく、他に原因があったのではないか。どうせダメだと思っていることにどんな根拠があるのか。私は本当にダメな人間であるのか。どうダメな人間であるのか。案の実行に不備はなかったか。運を天に任せていないだろうか。  諦めてしまっている自分。諦める根拠なんて何もないのに。ただやっても無駄「かもしれない」うまくいかない「かもしれない」と及び腰になっている。今までの人生、なんだってなんとかなってきたはず。やってみないことにはうまくいくかどうかなんてわからない。やる前から諦めていたのでは話にならない

言いたいこと

「何か言いたいことあんじゃないの?」「いや、別に」「ならいいけど。それじゃ、もう行くから」「もう行くの?」「何よ?」「いや、別に」「なに?」「いや、別に」「はっきりしてよ なんなのよもう」「いや、いいんだ」「言い淀んでる感じ気持ち悪いんだけど」「いや、いい」「あっそ」  何かを言い淀む時。相手を気遣っているのか。自分の気持ちをうまく言葉にできないのか。うまく伝える自信がないのか。相手の方がよく考えてる事に対して何かいうことを躊躇うのか。つまり自分の方が浅いことを躊躇ってしまうという事もあるかもしれない。  こんな秋晴れの気持ちの良い日に君を誘えないのはなんだか憂鬱。だけどそれを何かの所為にして、ぼくは君を見送ってしまう。君は行ってしまう。確かに言いたいことはあったのだけど、そしてそれは面と向かってしか言えないことで。そういうことってあるでしょう? だけど、ぼくは躊躇して、この場に立ち尽くしている。もうどうしようもないかもしれない。  この場で君を誘わなければ、君と歩くことはできない。もう一生そのチャンスはないかもしれない。なにかを彼女の中に残してしまったまま、ぼくは立ち尽くしてる。こんなことなら何も残さない方がましだった。彼女の内部にひとかけらだって自分なんて人間を入れるべきでなかった。そうすれば、こんな思い、することもなかったかもしれない。  彼女の背中が見える裡に、ぼくはもう呼び止めている。 「カナさん……! ちょっと歩きませんか?」  パッと彼女が振り向いて、こっちに歩いてくる。 「良いよ。駅まで行く?」「はい」  こうして喋りながら彼女と歩いてみたかった。それは何処でも良いってわけじゃないし、何時でも良いってわけじゃない。この場で今じゃないとダメなんだ。こうして自分で引き止めて、二人で歩くことに意味がある。  彼女は多分ぼくより考えてる。それでもぼくは考えなくてはならない。考え続け、行動し続けないことには、彼女のそばに生きることはできないだろう。その一歩としての、その宣言としての。  「もう秋だねー気持ちいいねー」「そうだね」「何か言いたいことがあったんじゃないの」「いや、一緒に歩きたいなと思いまして」「ふーん」

緘黙であることの後ろめたさ

 ある種の後ろめたさがずっとある。それは、喋ることから逃げているという感覚からくるものだと思う。  別にわたしはサラリーマンしてないことに劣等感も抱いてないし、いい歳して恋人がいないことも、家族を養えていないことにも何も感じてない。そういう機会がないというだけの話だと思うし、今のところそれなりに幸せにやっているので特に思うこともない。ひょっとしたら、心の奥底に何かの火種は持っているかもしれないけれど、それは今のところ些細なことだと思ってる。  それよりも、喋ることから逃げているという感覚が自分の中にある。ずっとある。喋ることには恐怖も不安もない、だけど、喋れない。それは病気だからだけど、それを病気のせいだけにしていていいのだろうか。おそらく薬を飲むことは寛解の助けにはなっても、寛解することには直接は繋がらないだろう。私が喋ろうということでしか喋ることはできない。  9月の10日から緘黙を寛解させようと試行錯誤しているというか、意識しているけれど、自分を追い詰めるばかりで一向に喋る気配はない。せいぜいが鼻歌を歌う程度だ。自分を追い込むことで憂鬱になっている。鬱だとは言わないけれど、実際に睡眠時間は増えているし、QOLも下がっているように思う。生きていて楽しくないし、事実、朝起きるのがしんどい。起きることができなくなっている。無理やり起きている。とにかく楽しくないのだ。うまく自分をコントロールできなくなっている。  こんなことなら寛解なんて目指さずに悠々自適に生きていたほうが楽しかった。この壁の向こうに拓けた土地があるとわかっていながら、それを一直線に求めることができないでいる。  喋ろうと思って喋るわけではないと思う。そうする人間なんていない。ただ言葉は突いて出てくるものだ。自然と言葉が出てくるように仕向けたほうが早いって気がする。私は考えすぎなのだ。喋ることで人を楽しませようとか、自分が楽しもうとか、そんなことじゃなくて、ただ喋る。当たり前のように喋る。そうする以外にないって気がしてる。そうできたらいいのにな、と思う。  逃げも言い訳もつらさも湧き出てくる思い出も後悔も、ただイイワケに過ぎない。自分をどうにかしないことにはどうにもならない。喋ることでしか喋れない。さんざ自分と向き合ってきたつもりが、何の役にも立っていない。私は私を包括し得ない。ただただア

かつて月にまで行った文明

 浮気した彼氏にフラれ、話を聞いてもらうために友達の家に来た。必死に励まそうとしてくれる友人が言うことには。 「そんなこと、宇宙規模で言ったら、大したことじゃないよ」「そうかもね。でもわたしには大事なことなのよ」「人類はむかし月まで行ったんだよ? 男が浮気したくらいでなんだー」「そうだね。でもわたしには……」  うまく心を整理できないまま、よくわからない話が始まってしまった。宇宙は宇宙だが、彼は彼だ。 「だけど、宇宙は広いんだよ。地球だって広いし、いくらでも人はいるんだよ! そんなこと、気にするなー!」「うん、ありがとう」「自分をちっぽけだと思えー! みんなちっぽけなんだー! そう思えばどーでもよくなるよ! ほら」「うん、そだね」  いきなりフラれ話に宇宙や月を持ち出す友人に戸惑いつつも、そんな気分になってくる。でもまだ立ち直ってはいない気がする。 「そんなことより、笑って? ほら、楽しいことしよっ」「えー、無理だよぉ」「ほらほら~」「わかった、わかったから!」「いーや、その顔はわかってない顔だ! 宇宙人め、やっつけろー」「きゃー」  二人で呑み始めると時間が経つのは、はやい。ちょっと落ち着くと、途端にいろんなことがどうでも良い気分になってくる。 「そう考えると、人類って月に行ったんだよねぇ」「そうだねえ」「月にタッチして戻ってきたの? 人間のどこにそんなパワーが!?」「そうだねえ」「すっごいよねぇ。よっしゃ、わたしも宇宙行っちゃるー! 浮気なんてどんとこいじゃー」「おー、いいねー、その調子、その調子ぃ」

風邪

 「風邪ひーた。来て、今すぐ」「やだよ。無理」「なんで」「無理だから。もう電話しないで」「わかった。だから来て」「行かないって」「なんで切らないの」「別に。切ってよ」「やだよ。声聞いてたいんだ」「……。」「なんか喋ってよ」「……。」「俺もう死ぬかもよ」「ふーん。じゃあ行くわ。」