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この10年間を振り返って〜人というフシギ〜

 緘黙になったのが2008年くらいだったので、来年で10年になる。今年の10月くらいに喋れるようになったので、まぁだいたい9年かそのくらいはほとんどまともに人と喋っていなかったことになる。そんなわけで、この10年を振り返ろうかな、と思ったけれど、そんなことよりも、ここからの10年について文章にしておこうかな、と思う。少々長くなるかもしれない。  人はいつだって楽しくありたいと思うはず。いつ命が尽きるともしれず、そして人は必ずいつか死ぬ。いつかのために今を苦しむという考えもあるのかもしれないし、そうしないと、いつかの楽しみを得ることができないということもあるのかもしれない。黙って耐える時間というのも必要なのかもしれない。  でも、そんな耐える日々の中にも、なにか楽しみがあった方がいいと、私は思う。私はこの9年間いろんな気持ちになったけれど、それが楽しい日々への布石だと思ったことは一度もないし、できたら苦しい気持ちにはならないほうがいいと思ってる。ずーっと楽しい気持ちでいたほうが健やかだし、そっちを目指すべきなんじゃないか。苦しい思いをするべきじゃない、って言いたいんじゃなくて、そういう中にもちょっとした楽しみを見出せたほうが、人生は豊かだってこと。歯を食いしばってるだけが人生ではない。何かに楽しみを少しでも見出せていないと人生はとてもつまらないものになってしまう。  それは苦しみだけではなくて、怒りに身を任せたり、怒りに囚われてしまうこともそう。そういう時間は、なるべく少ないほうがいいと思う。ふっと息を漏らす時間、楽しみに興じることができないのは、本当につまらない。  楽しい時間を過ごすためにも分かち合う仲間とか友達とか、そういう人が人生にいるってことは、かけがえのないことだ。そういう人がいないってのは、本当に貧相な人生だと思う。  ここ数ヶ月で、「笑う」ってことが、どんなに大事なのか、本当に見に染み入るようになった。この9年間の間に、笑うことができなかったこともあったけれど、それでも、なんとか生きてこれたのは、笑っている自分を想像できたからだと思う。  ラジオを聴いたり、いろんなことして笑おうしてきたけど、本当に笑っているのは喋れるようになってからのこの数ヶ月だったと思う。人と会って喋るってことが、どれだけ自分を和ませたか、どれだけ自分に誇りを持たせるこ

一人

一人で生きていても楽しくはないだろう。 誰も信じることができないなんて、つらすぎる。 よすがにする人がないなんて、悲しすぎる。 誰にも相談することなく、正しさに到着することはない。 自分が正しいと思った瞬間に、何かが瓦解する。 人の担保なしに、正しさは保たれ得ない。 独りよがりでは、思考は停滞する。 自分の考えの癖を超えることはできない。 人がいるから、その言葉や行動を正すことができる。 人は一人で生きていくことはできない。少なくとも健やかにはいられない。

改・トラウマについての一考察

 トラウマが次の行動に影響を与えるだろうということ。未来の行動を躊躇させるということ。そうやって制限されているであろう人をたくさん見てきた。それがなにによるのかも、なんとなく察しがつくこともあった。そういうことをなるべくなら乗り越えられたらいいのにと思ってた。障害なく暮らせた方がいいって思う。  人はなにかしら背負ってる。生まれたばかりの赤子だって背負ってる。大人になればなおのこと。成長していくに従って周りとの関係によってその人は作られていく。それがどういうものになるのかは、誰にもコントロールできない。  トラウマが瓦解するとき「腑に落ちる」という表現が一番ピンとくる気がする。私に危害を加えてきた人はこういう感情や理屈を持っていたから、こういう行動をしてきたのだと思える。そのこと自体は許せなくても、なんでそうしたのかを知ることができたなら、自分を納得させることができるかもしれない。諦めもつくかもしれない。そこになんらかの感情や筋の通った理屈があれば、だけど。そんなものなく、心的外傷をもたらされることだって時には、ある。  縁は不思議。それがそこにあることに何か意味があるのかもしれないし、ないのかもしれない。わからない。  なにかを受け取ったときに、どう振る舞うのか。幸も不幸も、必然も偶然も。僕はことによっては取り乱すだろうし、うろたえるだろうし、憔悴してしまうかもしれない。あるいは受け入れるのだろう。もしかしたら何かを失ったまま、人生を過ごすのかもしれない。  なるべく自分の近しい人が自分の人生を生きることができたらいいって思う。未来の行動に影響を及ぼす全てのことをコントロールすることはできない。でも、ちょっとだけ良くすることはできるかもしれない。自分をどう思うのかってこと。自分を憐れみすぎるのもよくない。かといって過剰な自尊心も毒である。  自分を自分で縛ってる。自分への憐れみも自尊心も。制御することで自分を守ろうとする。自縛を解くことができれば、少しは自由になる。許せなくてもいい、納得できたなら。  そのために、想像力を働かせることだ。状況と感情を把握することだ。その時なにが起きていたのだろう。すべては想像力による。今すぐじゃなくていい。時がきたら想いを馳せてほしい。腑に落ちる時がくるかもしれない。  どうか、いい人生を。

トラウマについての一考察

 無理なことは無理である。どんな人にも多かれ少なかれ、トラウマってあるんじゃないか。それが人生を左右するほどのこともあれば、大したことでもなく自分でも気がついていないということもあるかもしれない。心の傷は、外からは見えず他人からはほとんどわからない。普通にしている人にだってなにかしらあるものだ。そういうものがあって傷ついているから人は魅力的に見えるのかもしれない。少なくとも無傷を装っている人には僕は心を開かないと思う。  僕だって傷つくことはあったし、失敗だってたくさんあった。それがどう心理に影響しているかなんて、わからない。でもきっと小さな影響はあるだろうし、ひょっとしたら目に見える形で現れているのかもしれない。その因果関係がわかることもあれば──つまり人生を左右するほどのこと、と言えるかもしれない──目にほとんど見えないこともあるのだろう。  僕は精神科医でもないし、詳しいわけでもない。心的外傷について僕はほとんどなにも知らない。  ただそれが次の行動に影響を与えるだろうということはわかる。未来の行動を躊躇させるということは、わかる。そうやって制限されているであろう人をたくさん見てきた。それがなにによるのかも、なんとなく察しがつくこともあった。そういうことをなるべくなら乗り越えられたらいいのにと思ってた。平気で暮らせた方がいいと思う。  人はなにかしら背負ってる。生まれたばかりの赤子だって背負っている。大人になればなおのこと。成長していくに従って、周りとの関係によってその人は作られていく。それがどういうものになるのかは、誰にもコントロールできないと思う。臭いものに蓋をすることでさえも、コントロールなのだ。そういうトラウマだってあるのだろう。  トラウマを乗り越えるとき、そのことがへっちゃらになっている。たぶん、大丈夫だろうと、恐るおそるそれを超えていく。時がそれを解決するかもしれないし、理屈なのかもしれない。いろんなトラウマがあるから、一概には言えない。何か、腑に落ちる瞬間があるのだろう。人の行動を見て変わることもあれば、勇気付けられたり、ある日なんでもないや、と思うのかもしれない。大げさに考えすぎていた、とか、けっこう自分の気の持ちようによっても大きく変わるのではないか。考え方次第で、自分を縛っている鎖は外れたりする。  何度も書くが私は専門家では

言葉の扱い

 自分が間違っていること「だけ」わかっている。なにが間違っているのかはわからない。知ろうと足掻いてもいない。知りたくないのかもしれない。やはり自分の弱さみたいなものを直視するのが怖いのだろう。できないという自分を受け入れられないのだろう。間違っていると知りながら、間違った道を間違ったやり方で行こうとしている。  今まで、うまくいったこともあれば、そうでないこともある。ということはどういう時にうまくいって、あるいはうまくいかないか、わかっていないということだ。運にまかせているだけだし、ほとんど当てずっぽうと言っていい。なるようになるさと思っていて、一歩先になにがあるかなんて、考えていないのだ。  きっと、うまく行く方法があってそれを学んでいけるはずなのに、そうはしていない。自分の思考の癖みたいなものがあるはずなのに、それをコントロールできないというか、折伏できていない。  「間違っている」というのはいまの状況ではなくて、考え方や振る舞いのことだ。つまり、根源的なことである。  自分に対して考えているフリをしてしまっている。実際にしていることは言葉をこねくり回しているだけだ。考えたのならそれをもとに有効に行動しなければならないが、そうしようという素振りはない。言葉を並べただけでは考えたことにはならない。(自分なりに)考える(フリをする)ことに快感をすら覚えてしまってる。何かしている気になっているのだろう。でも実際にしている行動は大したことではない。  考える出発点の着想から始まって、一度も予想を外れない。どこかの誰かが言いそうな経路をたどって、誰もが思いつくような結論に達する。オリジナリティのことを言いたいのではないし、ほかの人も言っているから正しいとも限らない。  言葉を運用するのに最低限まもらなければならないことを守っていないように思う。その言葉はどこから来て、どこへ行くのか。自分が考えるということはそこにどう活かされているのか。自分がそれを発する意義はなんなのか。  私が間違っているところの一つはそういった言葉の運用に関する掟なのではないか。考えるということは、言葉を使う。その言葉の扱いを誤れば、思考も誤る。よって行動も誤る。  言葉に対する言葉が見つからない。どう考えたらいいのかもわからない。どう行動したらいいのかもわからない。自分がどこまでどう

惑い人

 年末年始の浮かれた雰囲気が苦手だ。このいまの日本の世界中からの観光バブルも苦手だ。この浮き足立っている感じ、いつまで続くんだろう。ペースを乱されるような足並みなんてないのだけど、何かが乱されているように感じてしまう。自分のことくらいは地に足をつけて自分自身を見失わないようにしたい。というかとっくにわたしは自分を見失っているわけだけど、自分を固定するのを邪魔しないで欲しい、という感じ。この地に足のついていない感じ、いつも惑わされている。こういうときにはいつだってわたしは外に出ないし、家でじっとしている。パーっとお金使おうという感じ、セックスするという感じ、そういう浮かれ具合が嫌なんだ。使うなら、使うべく使いたいし、するならするべくしたい。何かに流されて使ったり、することについて僕は違和感を感じてる。 ***  本物になりたい。とつぶやいたところで、そうなれるわけではない。たぶん僕は偽物で、どうしようもなく偽物で、本物にはなりそうもない。コピーですらなく、ただ紛い物である。いつだって誰にでもできそうなことをしているというだけで、読んだ人は自分に立って書けそうだ、という文章しか書いていない。だから、人の心をつかむことはない。そうするつもりはないというのはただの逃げで、本当はそうしたいはずなのにそうするように鍛錬していない。逃げてるんだ。そうしているうちは本物になんてなれないだろう。考え方からして間違っている。本物とはなんなのか、って言葉にならない。でも自分が偽物であるという予感はある。それは自分が頑張れないからで、ただしたいことしてるだけだからで、努力できないからだ。何もかもが間違っているし、正しいことを目指していない、というスタンスをとっている間は、どこにも行けないのだろう。行く気もない、と嘯いている。それじゃあダメなんだ。  そのために何を捨てるか、っていうのがたぶん大事で。そのために何を懸けられるのか、っていうのが大事で。人の限られた時間を何に使うんだよってこと。くだらない亡霊の相手をしている暇があるのなら、文章のことを考えていた方がいいよって思う。目の前のことに集中し続けていくことでしかなく、そして、そうもできないでいる。連続した何かを自分に用意することができず、ただ受け身にやるべきことをこなしているだけだ。 ***  何かに流されて使ったり、したり、

不条理の亡霊

 思うごとに亡霊はやってくる。そのたびに蹴散らしている。思うことはただ一つ、過去の出来事と今につながること。そのことを思い出すたびに私は焦燥し、脳のキャパの一部を使い、いたたまれない気持ちになっている。そのことを考えることすら野暮で、考えたくもないこと。  起きたことを許すこともできず、納得することもできない。人生とは不条理なことが起きるものだ。人間関係にはわからないことが多すぎる。  今思う。人は思ったよりも人に優しいし、親切だ。ただ、そうではない人もいるというだけで。  一生、納得することのないことを抱えて、生きている。  救うのは、想像力。その人に何があったのかの情報さえあれば、なぜそんな行動をしたのか、納得はできなくても、許すことはできるかもしれない。弱い人なのだと、情けない人なのだと、自分に起こった不条理を受け入れることができるかもしれない。