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お金について

 今日の文章はいま僕が抱えてる悩みのひとつについてです。  僕はお金を稼ぐということに頓着していない。そこそこでいいと思ってるし、仕事しないで暮らせるのなら、そのほうが良いとさえ思う。それで幸せならね。あくまで倫理的に社会的に憲法的にそれが許されるのならば、ということだけど。  お金の話をしようとすると仕事の話になっていくのでとりあえず切り離しておく。純粋にお金について、まずは書きたい。  お金が無ければできないことって結構あるだろう。結婚も子育ても、何もかもにお金はかかる。自分の範囲で幸せでいるためのお金と、人を裕福にするためのお金の量には当たり前だけど大きな差がある。あくまで裕福であって幸せとは敢えて書かない。  あと税金を払うとか寄付や募金をして人を助けるとかみたいな話も今日は割愛します。あくまで自分と自分の周りだけの話に簡略化して考えたい。  お金(を稼ぐこと)に執着しないことの理由の一つには、たぶんどっかで、幸せはお金に依存しないはず、と思っているんだと思う。思いたいんだと思う。お金があるから恋人ができるとか、結婚できるとか子供を育てられるのだ、ということを本当には信じていないのだと思う。なくても愛し合ってさえいれば意中の人と結ばれて、結婚して子供を育てることができる”だろう”と考えている。  ちょっと考えればわかることだけど、それがアマいということは”頭では”わかってる。だからこのことを悩みとして認識しているし、なんとかしたいとも思ってる。頭ではわかっているけど、どっかでそんなのは本当の愛ではないとか、自分の求めている幸せとは違う、などと考えてしまう。  そういう自分の考えは、実は簡単に変更可能でそんなに執着があるわけでもたぶんなくて、「魔法の言葉」一つですぐに違う道を往くだろうって感じはしてる。浅い考えで、自分の都合の良いように考えているだけだから。  何をするにもお金はかかる。どうしてもかかる。この社会では自明である。一人で幸せになろうとしたって当たり前にお金はかかる。その量が少なく済む、というだけの話。自分の範囲なら今の自分で賄えるというだけの話。将来設計も予測も不慮の何某かにもなんの備えもない。  そういう自分を見てバカにする人もいるだろうなと思うけど、なるべくしてこうなってしまったので、あまり気にはならない。要するに病気を患っ

人を人としてみること、モノとしてみること

 仲良くなる人とそうでない人がいるのはナゼなのか。例えば同じクラスになったとしても、特別に仲良くなる人とそうでもない人がいる。たまたま席が前後になった人と気があったとかこの世界には様々なエピソードに事欠かないけれど、何が人と人が仲良くなることを決定付けているのだろう。  人と人が仲良くなるということは、まずはその相手に興味を持つことから始まるだろう。その上でその興味を満たしあうことができたなら、それが仲良くなるということの第一歩かもしれない。  人が人を理解しているということと同じくらいに、その人のことを許せるということが大事なのではないかなぁと僕は思う。他人は他人である。どんなに仲が良くても自分の意に反することはいくらでもあるだろう。全てを自分のいう通りに行動する人がいるとしたら、それは友人ではなく奴隷である。人のすることを理解できなくとも、とにかく許すことができたなら、その関係はある程度はうまくいくんじゃないか。そこにはプライドだとか相手をどう見ているかだとか様々な要素がある。人と人が関わるときに根本にあるべきなのは尊敬の念なのではないか。それがなければ、どんな関係だとしてもうまくいくわけがないとさえ思う。尊敬という言葉が重いのなら、認めているだとか対等に見る、人として見ている、ということでもいい。人をモノとして見ていることは意外と多い。僕の中には人として認められたいというような欲求は当然あるし、人として認められないのならその関係はきっとうまくいかないだろう。  人として認められていない、ということに僕は絶望してしまう。人としての尊厳を失われてしまう。そういう場面では誇り高く生きることは困難だ。見下されることにはなんらかの理由が在るのだろうけど、ここではそのことについては触れない。欠点を晒したくないということではなく、一般性を失うからだ。欠点は誰にでもあるが、人によっては許すことのできない欠陥というのもあるのだろう。ある人たちにとってのそういう許しがたい何かを、僕が持ち合わせていたというだけに過ぎない。 ***  心を開いている閉じているという言い方がある。人は誰にでも心を開くわけじゃない。同じように出会った人に対しても閉じたり開いたりしてしまう。同じ人に対しても時と気分によって、あるいは何かのきっかけによって、開いたり閉じたりしてしまう。人と人の関係

互いに高め合う人間という複雑系

 人と人が何かをするということについて、なにがしかの感慨を覚えてる。なんでもいい。バンドメンバーがそこに集まって音楽を奏でることも、小説家と編集者が寄り添って小説を書くことも、詩人と詩人が対詩をすることも、女と男が知り合って一生を添い遂げることだって。  それは唯の例であって、人と人がすれ違っていくことも、あるいはすれ違いすらしないことも。人と人の間に巻き起こる全てのことを、今は注視したい気持ち。  その人たちが合わさることになった経緯とか努力とか歴史について、思わずにはいられない。それが優れていても、そうでなくても、関係ない。その人たちが出会ったことの尊さを思わずにはいられない。  人と人が出会うことを縁というけれど、縁を感じるかどうかはその人たち個人こじんが決めることだろう。僕が縁を感じても、相手が感じなければ、出会うことはできない。親と子でも、クラスメイトでも、何かを感じなければ、その人たちはうまくいくことはないだろう。愛情を注いでも、うまくいかないだろう。  優れているから必然的に出会うこともあるし、ただたまたま出会ったふたりが高め合って昇っていくこともある。だから優れているというだけでは、私は励起しない。そこで高め合うことのできる人たちこそが私を愛おしくさせる。  私は人とうまくやるだろう。そんな感じはしているけれど、誰とでも高め合うことができるかといったら、そんなことはない。気を許していてもうまくいかないことはあるし、緊張関係にあるからうまくいこともあるだろう。  人という複雑系の存在に、僕は魅了されてる。  僕はまだうまくやる方法を知らないのだ。人に絶望しているわけではなし、希望を持っているというわけでもない。ニュートラルに人を受け入れて、あるいは関わることができるだろう。この先の未来に人が関わってくることは必然で、そのことについては希望を持っている。この家を一歩出たなら、そこには当たり前に人は居て、その人と関わるも関わらないもきっかり半分は僕がその責任を負っている。受け入れることができるだろう。突き放すこともできるだろう。  人と人が織り成す全てを愛す。この全て歴史も未来も輝かしい。  僕がこうするから、君はこうする。  君がこうするから、僕はこうする。  多くはそこから始まっているんじゃないのか。

人に向かって何かをするということ

 ボクはこれまでに、いろんな人の助けを借りて生きてきたのに。それは相手がそうしようとしていたことも無意識のうちに助けになったこともあったと思う。それから時限装置のようにあらかじめ作られたものに(ボクに向けて作られていなくても意図せずボクの前にそれは現れて)助けられたということもあったと思う。回りくどい言い方になったけど、つまりそれは誰にでも日常的に起きていること。全ての造られたもの起こったことはそういう風にボクの眼前に現れてボクに影響している。  そのことに、ボクは無頓着だった。当たり前のようにそれを享受し、当たり前のように消化して、あるいは受け取ってた。本当に当たり前になってしまってて、そのことを感謝することはもちろん感じることもなかったし、尊いこととも思ってなかったのだ。人に親切にすることだってされることだって、当たり前だと思ってた。  だからだと思う。人がなんで自分の造ったものを人に広めたいとか不特定多数の人に見てもらいたいと思うのだろうか、ということを疑問に思ってた。  ボクは当たり前に自分のために何かを書くし、作るけれど、それは全然当たり前のことじゃないんだ。  何もかもがひいては自分のためなんじゃないか、と思ってたこともある。結局は自分をよく思われたい、ということに帰着するんじゃないか、とかさ。  当たり前に人のために何かすることは、当たり前じゃない。そこに意図があるわけじゃなくて、自分のためだけに何かするわけでもなくて、やっぱり人のためになっていることがいつかどっかであるんだと思う。そう思わずにはいられない。  ボクが文章を公開するのは、緊張感を保つためだとか客観性を持つためだ、と思ってた。だけど、たぶんそれだけじゃないと思う。ボクが書くことをやっぱり、人に読んでもらいたいんだと思う。それが何か人影響できたらいい、と、どっかで思ってたと思う。本当に心を掘り下げてみるとね。  この、人に関わるということを「尊い」という表現をするのであっているのかわからない。でも、人に関わるから、造るとか親切にするとか、そういうことに何か特別な感情を抱くんだろう。ありがたいと思うんだろう。そうやって無意識に思ってたことが、意識化されて、ボクは今とても興奮してる。当たり前に思ってたことが可視化されたのだ。  造ること、書くことに懐疑的だった。敷衍することに疑

人が一人でできることなんて、たかが知れているのに

 自分一人で何かをできていたかのように認識していたことが問題で。その裏にはたくさんの人の支えや影響や感化があったはず。ちょっと考えればわかることだ。この世に存在し私が触れたものの中に、私に影響しなかったものなんてなかったはず。  人と分かち合う歓びを、僕は知らないと思っていたけど、それは、僕の想像力の欠如からくることだ。自分一人で何かをできていると思うなんて傲慢なのだ。この世に存在していることさえも、両親の手を借りなければできなかったことなのだ。こうして成長することなら尚のこと。その間にいろんな人と巡り合って、僕は成長してきた。  一人で何かする方が楽しいと思っていた。思ってしまってた。人と何かすることに意味を見出せなかった。人と何かすることは楽しみを倍に、悲しみを半分にする、という言葉を詭弁だと思っていた。自分ですることを決めて、自分で何かを成し遂げることの方が、尊いと思っていた。その方が自然だった。一人でできることなら、一人でやった方がいいんじゃないか。  人が一人でできることなんてたかが知れているのに、一人で何かをしようだなんて。知恵は多い方がいい。愚かさから学ぶこともある。自分より優れた人は多い。  それなのに、僕はずっと独りだった。閉じているとか引きこもっているとか、いろんな言い方を人はするだろうけれど、どれもピンとこない。そういう時間だって必要だ、というのが今の僕の見解で、だけどそれだけでもダメなのだ。バランスが必要。両方できた方が良いと思う。社会性を持つことと、自分の時間を持つことは背反しないのだから。  一人の時間が大切なのは、そういう時間にしか、自分と向き合えないからだ。誰かを媒介にした自分を見つめても、それが自分の向き合うべき自分であるとは限らない。  どっかで僕は人を求めている。人恋しいと思うこともあるし、人に認められたいと思うこともある。世間は人でできている。一人でできることには限りがある。二人集まればそれだけできることは増える。三人増えれば三人分の。自分にできないことは人に任せたら良い。自分にできることをなにかに活かすというのなら、それは間違いなく人がいるできることだろう。他人がいるから自分を活かすことができる。  活かし、活かされる。  生かし、生かされる。  自分にできないことをしようと思うなら、人の力を借りるのが良い

求められるということ

 求められることで成り立つことって、結構多いのかもしれない。こうして文章を書くことは、自分で書こうと思って書いているわけだけど、自分が求めた文章を書いている、とも言えるかも。誰からも──あるいは自分からさえも──求められないとしたら、その人の存在意義は脅かされてしまうかもしれない。少なくとも社会の中で生きることは難しいだろう。どんな人だって、社会の中にいるのなら、なんらかの求めに応じていると言えるんじゃないか。  子は親の求めに応じて生まれてくるという言い方もできるかもしれない。そこに存在していることが、もう誰かの求めに応じているんじゃないか。生きている限り、どこかでだれかがあなたを求めているはず。  あなたを求められているから、その仕事をあなたがするのだ。誰にでもできる仕事だとしても、そこにその時あなたがいるから、その仕事は成るのであって、それはあなたが求められているということに他ならない。  (私のように)誰に求められるわけでもなく、ただ自分のしたいように何かをする人だって、少なくとも自分自身はそうすることを求めているはず。その価値が高まれば、それを求める人は増えるかもしれない。自分だけでなくだれかが自分を求めるようになるかもしれない。たとえ自分のためにしたことであっても、届くべき人に届くことがあるかもしれない。  誰も自分なんて求めていない、なんて諦めてはいけない。自分あるいは自分のすることの価値を高め続けることで、拓ける未来もあるのだろう。  仕事も恋愛も家族も友情も、求めるから成り立っている。どんなに自分には何もない、という人にだって、求められるべき何かはきっとある。この世界には幾億の人がいて、それぞれに何かを求めて生きている。  求め、求められ、僕たちは生きている。期待されるのならできる限り応えたい。そうすることで、できることも拡がるのだろう。自分の可能性を潰す人がいるとしたら、結局はそれは自分自身だ。誰にも求められないとしたら、自分に非があるのだ。求められないとしても、それでお終いというわけじゃない。淡々と日々は続いていくのです。価値が不十分なら、価値を高め続けるしかない。鍛錬を続けよ。いつかどこかだれかに、求められる日があるかもしれない。やるしかないのです、生きるために。

縁は異なもの。それはいいもの

 私たちは出逢ったの。ちょっと不思議ね。それまでは他人だったのに、いつの間にか大事な人になった。  彼といるのは楽しかった。出逢ってから、何回か時間を過ごして、わかったの。この世には本当に相性のいい人がいるんだってことが。  合わない人、場、状況ってのがあるのよ、生きてると。そういうところに執着してしまうことほど、自分をつらい目に合わすことなんてないのよ。乱れるし、自分を見失うの。大事にされると人は執着してしまうものなのよ。そんな不幸はないわ。こんな話し厭ね。  合う人とは何をやってもうまく行く気がするのよ。刺激を与え合えるし、成長させ合うことができるわ。それでいて楽なのよ。この人と一緒にいられたらいいのに、って心の底から思ったわ。  ちょっと前までは他人だったのに、いつの間にか近しい間柄になって、刺激し合って、互いを高め合ってる。疑問があったらそれを指摘しあうこともできる。そういうことを促すし、受け入れてくれる。呼吸するのも笑うのも何もかもが楽なのよ、彼とは。  こうすることができるのって、彼のことを尊敬しているからだと思う。彼が私のことを認めてくれているのもわかってる。だから、こういう関係が築けているのだと思うの。そうじゃなきゃ、一緒にいることなんてできないわ。これからも一緒にいたいと思ってる。  こんなに幸せだと、不安もある。彼を失ってしまうとしたら、そう考えることさえも怖いの。こんなに合っている人とはもう出逢えないかもしれない。彼を亡くしたら、私も死ぬわ。抱き合って絡み合って死ぬのよ。彼との生活のない人生なんてない。彼はもう現れない。そう考えるだけで不安になるのよ。こんな人いないわ。  恋人がいる人はみんな言うわね。「これは運命の出会いだ」って。そう自分に言い聞かせているのかもね。私がそういう人と違うとは言えないわ。でも私の直感が言っている。この人のそばにいると、きっと人生はいい方に行くって。みんなそう言うのかもね。  合う人を見つけたら、逃したら駄目よ。捕まえて、観察して、話をたくさんして、自分に訊くのよ。  幸せになりなさい。自分のために生きることも、人のために生きることも同じなのよ。つらい時間なんて必要ない。楽しむために人生はあるのよ。自分の総ての時間を幸せになるためだけに使うべきだわ。何度でも言うわ。幸せになりなさい。