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人に向かって何かをするということ

 ボクはこれまでに、いろんな人の助けを借りて生きてきたのに。それは相手がそうしようとしていたことも無意識のうちに助けになったこともあったと思う。それから時限装置のようにあらかじめ作られたものに(ボクに向けて作られていなくても意図せずボクの前にそれは現れて)助けられたということもあったと思う。回りくどい言い方になったけど、つまりそれは誰にでも日常的に起きていること。全ての造られたもの起こったことはそういう風にボクの眼前に現れてボクに影響している。  そのことに、ボクは無頓着だった。当たり前のようにそれを享受し、当たり前のように消化して、あるいは受け取ってた。本当に当たり前になってしまってて、そのことを感謝することはもちろん感じることもなかったし、尊いこととも思ってなかったのだ。人に親切にすることだってされることだって、当たり前だと思ってた。  だからだと思う。人がなんで自分の造ったものを人に広めたいとか不特定多数の人に見てもらいたいと思うのだろうか、ということを疑問に思ってた。  ボクは当たり前に自分のために何かを書くし、作るけれど、それは全然当たり前のことじゃないんだ。  何もかもがひいては自分のためなんじゃないか、と思ってたこともある。結局は自分をよく思われたい、ということに帰着するんじゃないか、とかさ。  当たり前に人のために何かすることは、当たり前じゃない。そこに意図があるわけじゃなくて、自分のためだけに何かするわけでもなくて、やっぱり人のためになっていることがいつかどっかであるんだと思う。そう思わずにはいられない。  ボクが文章を公開するのは、緊張感を保つためだとか客観性を持つためだ、と思ってた。だけど、たぶんそれだけじゃないと思う。ボクが書くことをやっぱり、人に読んでもらいたいんだと思う。それが何か人影響できたらいい、と、どっかで思ってたと思う。本当に心を掘り下げてみるとね。  この、人に関わるということを「尊い」という表現をするのであっているのかわからない。でも、人に関わるから、造るとか親切にするとか、そういうことに何か特別な感情を抱くんだろう。ありがたいと思うんだろう。そうやって無意識に思ってたことが、意識化されて、ボクは今とても興奮してる。当たり前に思ってたことが可視化されたのだ。  造ること、書くことに懐疑的だった。敷衍することに疑

人が一人でできることなんて、たかが知れているのに

 自分一人で何かをできていたかのように認識していたことが問題で。その裏にはたくさんの人の支えや影響や感化があったはず。ちょっと考えればわかることだ。この世に存在し私が触れたものの中に、私に影響しなかったものなんてなかったはず。  人と分かち合う歓びを、僕は知らないと思っていたけど、それは、僕の想像力の欠如からくることだ。自分一人で何かをできていると思うなんて傲慢なのだ。この世に存在していることさえも、両親の手を借りなければできなかったことなのだ。こうして成長することなら尚のこと。その間にいろんな人と巡り合って、僕は成長してきた。  一人で何かする方が楽しいと思っていた。思ってしまってた。人と何かすることに意味を見出せなかった。人と何かすることは楽しみを倍に、悲しみを半分にする、という言葉を詭弁だと思っていた。自分ですることを決めて、自分で何かを成し遂げることの方が、尊いと思っていた。その方が自然だった。一人でできることなら、一人でやった方がいいんじゃないか。  人が一人でできることなんてたかが知れているのに、一人で何かをしようだなんて。知恵は多い方がいい。愚かさから学ぶこともある。自分より優れた人は多い。  それなのに、僕はずっと独りだった。閉じているとか引きこもっているとか、いろんな言い方を人はするだろうけれど、どれもピンとこない。そういう時間だって必要だ、というのが今の僕の見解で、だけどそれだけでもダメなのだ。バランスが必要。両方できた方が良いと思う。社会性を持つことと、自分の時間を持つことは背反しないのだから。  一人の時間が大切なのは、そういう時間にしか、自分と向き合えないからだ。誰かを媒介にした自分を見つめても、それが自分の向き合うべき自分であるとは限らない。  どっかで僕は人を求めている。人恋しいと思うこともあるし、人に認められたいと思うこともある。世間は人でできている。一人でできることには限りがある。二人集まればそれだけできることは増える。三人増えれば三人分の。自分にできないことは人に任せたら良い。自分にできることをなにかに活かすというのなら、それは間違いなく人がいるできることだろう。他人がいるから自分を活かすことができる。  活かし、活かされる。  生かし、生かされる。  自分にできないことをしようと思うなら、人の力を借りるのが良い

求められるということ

 求められることで成り立つことって、結構多いのかもしれない。こうして文章を書くことは、自分で書こうと思って書いているわけだけど、自分が求めた文章を書いている、とも言えるかも。誰からも──あるいは自分からさえも──求められないとしたら、その人の存在意義は脅かされてしまうかもしれない。少なくとも社会の中で生きることは難しいだろう。どんな人だって、社会の中にいるのなら、なんらかの求めに応じていると言えるんじゃないか。  子は親の求めに応じて生まれてくるという言い方もできるかもしれない。そこに存在していることが、もう誰かの求めに応じているんじゃないか。生きている限り、どこかでだれかがあなたを求めているはず。  あなたを求められているから、その仕事をあなたがするのだ。誰にでもできる仕事だとしても、そこにその時あなたがいるから、その仕事は成るのであって、それはあなたが求められているということに他ならない。  (私のように)誰に求められるわけでもなく、ただ自分のしたいように何かをする人だって、少なくとも自分自身はそうすることを求めているはず。その価値が高まれば、それを求める人は増えるかもしれない。自分だけでなくだれかが自分を求めるようになるかもしれない。たとえ自分のためにしたことであっても、届くべき人に届くことがあるかもしれない。  誰も自分なんて求めていない、なんて諦めてはいけない。自分あるいは自分のすることの価値を高め続けることで、拓ける未来もあるのだろう。  仕事も恋愛も家族も友情も、求めるから成り立っている。どんなに自分には何もない、という人にだって、求められるべき何かはきっとある。この世界には幾億の人がいて、それぞれに何かを求めて生きている。  求め、求められ、僕たちは生きている。期待されるのならできる限り応えたい。そうすることで、できることも拡がるのだろう。自分の可能性を潰す人がいるとしたら、結局はそれは自分自身だ。誰にも求められないとしたら、自分に非があるのだ。求められないとしても、それでお終いというわけじゃない。淡々と日々は続いていくのです。価値が不十分なら、価値を高め続けるしかない。鍛錬を続けよ。いつかどこかだれかに、求められる日があるかもしれない。やるしかないのです、生きるために。

縁は異なもの。それはいいもの

 私たちは出逢ったの。ちょっと不思議ね。それまでは他人だったのに、いつの間にか大事な人になった。  彼といるのは楽しかった。出逢ってから、何回か時間を過ごして、わかったの。この世には本当に相性のいい人がいるんだってことが。  合わない人、場、状況ってのがあるのよ、生きてると。そういうところに執着してしまうことほど、自分をつらい目に合わすことなんてないのよ。乱れるし、自分を見失うの。大事にされると人は執着してしまうものなのよ。そんな不幸はないわ。こんな話し厭ね。  合う人とは何をやってもうまく行く気がするのよ。刺激を与え合えるし、成長させ合うことができるわ。それでいて楽なのよ。この人と一緒にいられたらいいのに、って心の底から思ったわ。  ちょっと前までは他人だったのに、いつの間にか近しい間柄になって、刺激し合って、互いを高め合ってる。疑問があったらそれを指摘しあうこともできる。そういうことを促すし、受け入れてくれる。呼吸するのも笑うのも何もかもが楽なのよ、彼とは。  こうすることができるのって、彼のことを尊敬しているからだと思う。彼が私のことを認めてくれているのもわかってる。だから、こういう関係が築けているのだと思うの。そうじゃなきゃ、一緒にいることなんてできないわ。これからも一緒にいたいと思ってる。  こんなに幸せだと、不安もある。彼を失ってしまうとしたら、そう考えることさえも怖いの。こんなに合っている人とはもう出逢えないかもしれない。彼を亡くしたら、私も死ぬわ。抱き合って絡み合って死ぬのよ。彼との生活のない人生なんてない。彼はもう現れない。そう考えるだけで不安になるのよ。こんな人いないわ。  恋人がいる人はみんな言うわね。「これは運命の出会いだ」って。そう自分に言い聞かせているのかもね。私がそういう人と違うとは言えないわ。でも私の直感が言っている。この人のそばにいると、きっと人生はいい方に行くって。みんなそう言うのかもね。  合う人を見つけたら、逃したら駄目よ。捕まえて、観察して、話をたくさんして、自分に訊くのよ。  幸せになりなさい。自分のために生きることも、人のために生きることも同じなのよ。つらい時間なんて必要ない。楽しむために人生はあるのよ。自分の総ての時間を幸せになるためだけに使うべきだわ。何度でも言うわ。幸せになりなさい。

わたしの人生における友達についての一考察 その3

  一昨日 、 昨日 の続きです。  僕がするべきことは、自分の中の友達像を作り直すことだと思う。友達だと思ってはいけない人たちを友達だと思っていたのだと思う。そのことによる不具合だって気がしてる。というか友達像を作り直すことでほとんどの辻褄は合うのではないか。  ここ最近の自分を見ていると、距離感を誤るということが多い。そういう感覚がなんらかの障害でぶっ壊れているんだろう。友達と思ってはいけない人のことを友達と思っているのだとしたら、そこには齟齬があるのは当たり前で、自分の思い通りにはならないのは当然である。  誰が友達で、誰が友達ではなかったか、ということをここで論じても仕方ない。友達の定義を書いても無意味だろう。  あるグループがあって、そこで楽しむことができない人がいるとしたら、それはそこでは合わなかった、というだけ。自分の欠陥「だけ」を示しているわけでもないし、自分に何かを楽しむ能力がないわけでも、人と楽しむ能力がないわけでもない。いろんな要素があって、僕はそこかしこに存在してる。存在を許されてる。  楽しむか、はたまたそうではないか、というだけで、そこで楽しみたいのか、っていうだけだと思う。楽しめないのなら、他へ行きゃあいいし、そこにこだわる理由なんて何もないはず。そう思えば自分の人生を共に過ごした人たちと、うまくやっていくことだってできるのかもしれない。  ただ僕は心を許すことができない人たちのことを友達と思いたかったのだし、そしてその人たちのことをどっかで友達だと思っていたのだと思う。でも、彼らは友達ではないと思う。いろんなエピソードからそう思ってる。友達なら当然するだろうことを僕たちはそれぞれにしなかった。それぞれの楽しみ、許せないこと、いろんな要素から僕たちは道を別ったのだ。その認識こそが甘いのではないか。  友達と思ってはいけない人のことを友達だと思っていた、ということはそういうこと。それは僕に友達を作る能力がない、というエピソードではない。ただある人たちとそりが合わなかった、というだけにすぎない。  この世界にはたくさんの人がいる。人生のある時期を過ごした人とうまくいかなかったからといって、この世の全ての人とうまくいかないと考えてしまうのは早計だ。実際に楽しく過ごせているエピソードだってたくさんあるのに。悪いイメージばかり

わたしの人生における友達についての一考察 その2

  本を読んでいて、自分が引っかかっていたことについて腑に落ちた話 の続きです。その1はリンクから飛んでください。  過去に起こったことを憂いてもしかたない。今日こそは未来について書きたい。そこにしか行く道はないし、考えてもしかたないことを考えてもしょーがない。  人の担保があるからこそ、人との繋がりがあるからこそ、私はわたしとしていられる。昨日はともだちという言葉を使ったけれど、それは他者と言ってもいいと思う。独りよがりを脱するためには他者の目が必要だ。自分を保つためには、社会が必要である。  笑って過ごしていたいし、楽しく過ごしていたい。いつだって。できる限り楽しく生きていたい。死ぬまでそうしていたい。一人で笑うことなんて、たぶん虚しいことだろう。真に独りだったら──社会と寸断していたら──笑うことなんてないだろう。楽しいことも少ないだろう。  人と分かち合う喜びをぼくは知っているし、人と笑い合う喜びも知っている。人に認められる喜びも知っているし、人が楽しんでいるのを見ると、自分も楽しくなる。人にはいろんな価値観があるし、考えもある。そういった違いを許容することもできるし、多様することは楽しいことだと思う。  いろんな人がいるから楽しいのに、ぼくだけは許されなかった。ただそれだけのことだったのだ。状況や流れや人が違えば、ぼくはうまくやるだろう。未来への不安を払拭したい。そのためには過去のことを水に流すわけにはいかない。だけど、そのことを書いている紙面は今日もない。  うまく人を頼ることができない、っていうのは大きな問題だと思う。そうだからこそ自分の美点はあったのだと思うけど、しかしそれは大きな欠点でもある。人に相談ができない。そういう言葉を持っていない。表現がない。だからこうして書くわけだけど、それにも限界がある。自浄するには限界がある。そこには誰の担保もないからである。自己完結した独りよがりな考えほど、醜くなんの役にも立たないものはない。  心を許している人がこの地球に少なすぎる。それは同時に僕のことを信頼している人が少なすぎるということでもあるかもしれない。僕はいつもぎこちなく人と接してる。どう人と接したらいいのか、未だにわからないでいる。表現を持っていないということの欠陥を今日も抱えてる。  ツイッターやブログをやっていて思

わたしの人生における友達についての一考察

 本を読んでいて、自分を縛り付けているものについて腑に落ちた。そのことを考えると過去のことを書かなくてはならないけれど、なるべくそれは簡潔にして、なるべく未来のことについて書きたい。  要するにキーワードは『ともだち』なのだと思う。こう書くと一気に某〇〇世紀少年ぽくなるけど。過去について触れたくないのは、それがトラウマに直結しているからだ。そこを掘った時、自分がどうなってしまうのかわからない。だけど、表現してみる。  大学一年の冬に、エポックメイキングなことが一週間くらいの間に起こった。そこで、その何年間かに付き合いのあった人たちと縁を切ったり、その一年間所属していたサークルを辞めたりしている。つまりそこで一気に『ともだち』を失ったのだと思う。その影響が大学四年の時に出て、私は喋ることができなくなったのではないか。私は今そう考えてる。  物の本によれば、ダブルバインドに挟まれた時、わたしの病気になることがあるらしい。つまり処理できない問題を抱えすぎると病むということだ。  『ともだち』は欲しいのに自分は拒絶してしまった。たぶんこれだけ書いても読んだ人には意味不明だと思うのだけど、この文章ではここまでしか書けない。とても過去のことを詳細に書くには字数が足りない。わたしにも落ち度はもちろんあったし、彼らにもあった。とにかく、わたしと彼らを繋いでいる糸は切れてしまい、それを修復することを互いにそれほどしなかった、ということだ(ちょっとはあった)。そこには男女間のもつれも絡んでるし、うまく説明する自信はない。わたしは不器用だったし、彼らはわたしを切り捨てたと思う。とにかくそういう結果だけが残ったのだ。  その時にはわたしは自分のしたいようにしたと思っていたけど、やはり心にずっと抱えていたんだと思う。それが後になって響いたのだ。抱え込んだ闇の大きさに耐えられなかった。人を切り捨てる、切り捨てられるということは闇と直結している。  ともだちを作ることが自分にはできないのではないか、というのがわたしの根本としての未来への悩みだったように思う。言い換えれば、病気の原因は、ともだちが欲しいのに、裏切ってしまった、というダブルバインドだろう。ともだちを失った自分を心のどこかで了承できなかったのかもしれない。そしてそのことは、未来にともだちができないかもしれない、という思考へ