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星星の思い出

 なぜわたしが、星に、宇宙に、興味を持ったのか、今日は書いてみようと思う。  たぶんそれはおそらく、小学校一年生の夏に登った 北岳 に行く計画を練っていた時だったと思う。父が、渋っているわたしに「山の上では星が綺麗だよ、たくさん見えるよ」と言ったのだったと思う。それに母は同調して、そうねぇ、とか言っていたかもしれない。母は山には登らなかったのだけど、それだけは羨ましがっている、という感じを察知したわたしは、その瞬間からもう、星に魅せられていたように思う。  ちょうど同じ頃に、 毛利衛 さんが日本人初めてという触れ込みで宇宙に滞在したことも話題であった。その頃わたしの頭の中は宇宙一色となっていたように思う。宇宙飛行士は虫歯があるとなれないとわ かると 必死で歯を磨いた。母に奨められて『宇宙の図鑑』と『星座の図鑑』を手に入れた。そこに、本屋があったことをわたしはもう覚えていないのだが、それらの本を取り寄せたのはそこにあったはずの本屋だったという記憶だけが、おぼろげに残っている。そこは今銀行のATMが入っているだけの小さな空間なのだけど、ここに本屋があったというのは、未だに信じられることじゃあない。   閑話休題 。星の話だった。山に登るまでに父が星座早見盤を買ってくれた。滅多にというか誕生日プレゼントだってくれないような人たちだったのだけど、そういうものをつぎつぎと買ってくれるということにはなんの疑問も持たずに、わたしは星と宇宙にのめり込んでいったのだった。  その当時の夏休みの自由研究の宿題は プラネタリウム を作ったと思う。半球の透明プラスチックに黒くスプレーをして、星の配置に夜光塗料を塗っていくもの。塗料を塗るのはけっきょく父がやっていたような気がする。わたしは平面に描かれている星の配置を半球立体に写すことに躍起になりすぎて、頭がこんがらがっていたと思う。半ベソかきながら、うまくできないよー、と父に泣きついたのだった。  第二、第四土曜には母と近くの 天文台 に月や天体を見に行った。そういう教室があったのだ。結構多くの人が毎回来ていて、順番に 天体望遠鏡 を覗いてく。土曜はそろばん塾に通っていたので、天体教室がある日はとても忙しかった。夕食なんて摂らず、塾から帰るとそのまま 天文台 まで行った。母はそれほど興味もないのに毎回ついて来てくれた。  長じてわたしは、大

或いはそれこそが幸せな日々

 お金がなくても幸福でいられるのなら、その方が良いと、わたしは思う。しかしそれはとても難しい。日本人に於いて清貧が尊ばれるのはそうであることがとても困難だからだ。  漫画家の 鳥山明 さんは、幼い頃、貧しくやることがなくて両親とワルツを踊っていたそうだ。そういう幸福だって、あるのだと思う。あるいはそれこそが幸福だったのだ、と。  貧乏だとしても幸せに過ごせる人と、そうでない人といる。それをある種、「人格」と呼ぶのかもしれない。それには少なくとも、ワルツを踊るというような工夫が必要で、そういうことは誰にとってもの幸福とは言えないかもしれない。普遍性を持った幸せではない。それをそう感受できることこそが幸福なのだと思う。自分で見つけなくてはならない。見つかるということは何かに祝福されているのだ。それはつまり才能なのかもしれない。  幸福はお金では買えないかもしれないけれど、持っていることで少なくとも不幸を振り払うことは簡単かもしれない。人間に対する厄介ごとのほとんどはお金があれば解決できるかも。解決できないものも、もちろんあるのだけど。  お金がないとあらゆることに余裕が無くなってしまう。財布の締め具合にも心の安定にも人間関係にも子育てにも。大袈裟に言うのなら、あらゆる失敗はそれすなわち命取りとなりかねない。  「余裕」と「幸福」はほとんど同じ意味なのではないか。つまりお金を持っていても、余裕がなかったら幸せとは言えないかもしれない。逆を言えば、お金がなくてもあらゆることに余裕を保てるのなら、それだけで幸せと言えるのかもしれない。しかし、何度も書くけれど、それはとても難しいことだ。  たとえお金持ちになったとて、倹約家であることをわたしは辞めないと思う。「倹約」と「余裕」と「幸せあるいは不幸せ」とは別であると思う。倹約でも余裕で有り得、そして幸福でもあり得ると思う。それとこれとは別である。ゴージャスが良いという価値観を一庶民のわたしは持ち合わせていない。それ相応の人生があるのだと心得たい。  何事にも余裕のある生活をしたいけれど、それだけで幸せかというと疑問ではある。それはつまりわたしの価値観の問題だと思う。すなわち、「人に愛されてこその人生」なのではないか、と最近は思いつつある。  今はそれなりに余裕もある。お腹いっぱい食べることができて、月にCDを何枚かと、本を何冊か

人と関わること

 書店でバイトしていた時、初めて働くことでというか、もっというと人に何かすることで、褒められたような気がする。だから、今でもわたしは書店で働くことに執着してしまうのかもしれない。  両親はわたしを徹底して褒めない人だったし、学校生活でも褒められる機会ってそんなになかったと思う。友達として認められるとかそういうことはあったとしても、なんだかそれはとても空虚なものだと思っていた。少なくともきちんと何かに打ち込んで人に認められる、ということはなかったように思う。  人に褒められることを、こそばゆいというか危ういことだ、という感覚が自分の中にあると思う。つまり増長するのではないかと。両親もそれを知っていたからわたしにそう振る舞ったのかもしれない。奉られたり共感されることに敏感なのもそれと通じているのかも。なんにせよ、褒められることにわたしは慣れていないし、どうしたらいいのかわからない。  しかし、書店での印象的な出来事にはそういった感じはあまりなかった。自分の能力の成果を褒められたというか自分の打ち込んでいることを認められているという感覚があったから、少なくともその当時の自分の何かを形成していたとさえ思う。ある種、健全な自尊心というか。なんというかそれが幻想だとしても、社会人としてちょっとだけ認められたとさえ感じていたと思う。お金を媒介にするということだけでなくて、一人の人間として、というか。  人に褒められる悦びの記憶というのは自分にとってはそのくらいなのだと思う。接客は楽しいし、本も好きだし、書店という空間も一応好きなのだけど、今の自分はいろんな理由から書店で働くことには適わない。自分に合っているかどうかはわからないけれど、それらの記憶がわたしを書店員という仕事に意識を今も向かわせているのだと思う。働く、というとまず書店員が浮かぶ。  一方、文章を書いてそれによって人に褒められたという感覚は今のところ全くない。それでも文章を書くことは楽しいと思う。今の自分は書くことに打ち込んでいるとは言い難いから、褒められてもたぶん嬉しくはない。自分のために書いているという意識がかなり強いし、人に読まれるとか認められるとか褒められる、ということをほとんど想定していないように思える。  世界の中の一部としての文章を書く態度として、たぶんそれは最悪なのだと思う。人に読まれることを前提として

つぶやこうと思って書いたのだけど、そうはしなかった言葉たち(2月版)

人生における諸問題は山積みだけれど、それだってきっとなんとかなるはず。恵まれてる部分を思いつつ、やれることからやってく 考える方法を知りたいのだ。あらゆる知恵から、その発想、考え方を抽出する方法を知りたい 毎日書いた方が、健全だ、という感じはある。あるけど、何を書くかというのはとても大事なのだとも思う たぶんだけど、 潜在的 に書きたい、字で表現したい、という人はたくさんいるんだと思う。けれど、それを実際する人は少ないのではないか この世にあるものの、どれだけのものが、あらかじめ決めて用意周到に作為的に作られたものなのかって。 ジブリ だって 任天堂 だって、行き当たりばったりなところは多分にある気がする。 大事なのはその場で反応してくことなんじゃないか。ジャズの即興のように わたしは何もかもが浅はかだと思う。考えがいつだって甘い。すこしはマシになりたいのだが パントマイムの練習をしようと思ったこともあったのですが、その ナルシシズム というか人に見られる感じを想像したら耐えられなくてやめました。視線恐怖とかそういうことでなくて、目立ったり注目されるのが苦手。。自意識過剰ですかね わたしは何事も判断が遅い気がする。。もう少しキビキビ判断するようにしたら、いろいろ変わるかもしれん 説明的なことは書くことはできるような気がするけれど、隠したりあえてわからないようにすることは不得手というかできない。そういう美意識がない。 私の書いたものを読んでわからないところがあるのだとしたら、思考が至らず、説明できていない、表現できていないにすぎない。 好きだとか、愛してるだとか、それだけじゃダメなんだ。気持ちを実態として表現しないことには、それはないのと同じなのだと思う 教室の、端と端で目が逢うみたいに僕らはつぶやいている どんなニュースでも、自分と少なからず関係があるからニュースしてるわけで。というか日本に生きてる限りは関係ないことはないのだとも思う。だけど目を背けたいというか関係ないと思いたい気持ちもある。→ →どんなことにも教訓を求めようとしてしまう傾向が自分にはある気がするし、それだけで頭一杯になってしまうし、荒むし。 いつまでもしゃべれないふりをしていると、本当にしゃべれなくなるよ 社会の中で人と関わるとかうまくやっていくノウ ハウ というか感覚は

筆談AVのことを知って思うこと

 筆談AVというものが在る。出てくる女性が筆談でコミュニケーションするAVであるらしい。わたしはこのAVの本編を見たわけじゃないし、見るつもりもない。つらくて見られないと思う。だからこのAVについて語る資格はないかもしれない。そもそもAVについて詳しくもない。AVについて語るということは自分の性癖とか、何か柔らかいところに触れないといけないことだと思う。そういうことに慣れていないし、積極的にそうしたいとも思わない。何かのレビューのようなものを書こうという気もない。  ただ一人の 緘黙 者(の男)として、そういうアダルトヴィデオが存在しているということを、傍観者として思うところはある。  別にセックスにおいて声を出すことの是非について何か言いたいわけではないし、人の性癖についても他人に迷惑をかけないなら全く興味はない。  ただ 緘黙 者がそうでない人と社会の中でどう関わっていくのか、ということには少し興味がある。セックスは人間関係としては特殊というか、ある種振り切っていると思う。特にAVに出演するということになると。ただ自分にはAVに出たい人の気持ちはわからないし、出ることがどういうことなのかも考えない。そもそもこのAVがどこまで演出なのかはわからないことだ。出ている女性は人妻という触れ込みで、しゃべることができない、らしい。ヴィデオの中でのコミュニケーションは筆談をしているようだ。ただそういうAVが在る、ということだ。ということは少なくともそれに関わっている人たちはそこに需要がある、かもしれない、と思ったのだろうと思う。明け透けに言えば興奮する人がいるかもしれない、と。  これがどんどんエスカレートしていって、AVという幻想を飛び越えて、女性を従わせたい男によって都合よく 緘黙 の女性が扱われるようなことが起きてしまったらつらいな、とは思う。拒否したり抵抗することは可能かもしれないが、しゃべることで何かを伝えることはできないのだ。SMなどで使われる猿轡にはもしかしたらそういう意図があるのかもしれない(よくわからないで言ってます)。  おそらく作っている方々もこれは和姦でないと成立しないと思ったのかもしれない(少なくともわたしの見た範囲では和姦に見えた)。だけど人間の欲望はそんなことは簡単に飛び越えてしまうだろうということは想像できてしまう。この種のAVがもし売れたら

しゃべれないということを、どう捉えているか

 端的に言ってしまえば、しゃべれないことを受け入れてしまっていると思う。たぶんわたしは経済的には将来にわたって一人で暮らしていくぶんには困らないと思う。だからと言って、経済社会活動を放棄していいことにはならないし、働かなくてもいいことにはならないとは思う。厳密に言えば、わたしは働いていないとも言えない、とも思うのだけど、そこははっきりさせたくないところというか、今日はどうでもいいことだ。とにかくわたしは慎ましやかに一人で生きていくことに経済的には困らないと思っているのでその点はご心配なく。それは本当に運が良かった、恵まれていることだと思う。その点は開き直っているのだと思う。  もちろんしゃべれないことによって困ることはたくさんある。ありすぎるのだけど、そのことを見て見ぬ振りをしているし、困ることを可能な限り避けて暮らしていると思う。それでも、ある程度充実して暮らすことはできていると思っている。ある人に言わせるとそれは人間活動ということらしいけど、運動し、筋トレし、料理を作り、瞑想し、音楽を聴き、本を読み、ネットをし、ときどきこうして書く。わたしはたぶん幸せだと思う──一人で暮らすことが幸せか、ということは置いておいて。それはしゃべれないからそういう価値観を獲得していったのか、わたしが本来そういうものを持って育ってきたのかはわからない。一人っ子ということは大きかったと思うし、元々群れるのが好きなたちではなかったと思う。寂しさはそれほどないし、一人でいて性急に困るということでもない。  今のわたしが目指しているのは、おそらく、いかに社会の役に立つか、ということだと思う。しゃべることが必ずしもそのことに必要だとはそれほど思っていない。確かに不便だし、できることも限られてしまうけれど、できないことはできないのだ。もちろんしゃべろうとする努力は怠るべきではないし、しかし、しゃべれなくても、社会に役に立つことはできるのではないか、とも思ってる──思いたい。それは願望に過ぎないかもしれない。それは安易に、働きたいとか、お金を稼ぎたい、とも違う。わたしは社会によって生かされている。わたしが社会の中に存在しているのなら、社会に何か還元しようと思うのは当然のことだと思う。わたしにできることがあるのなら自分を社会に活かすべきだ。できることを少しずつ広げていくことだと思う。わたしにとって成

ぼくのすうぃんぐたれながし

 今日は自分の感じてる音楽について書きたいと思う。それは自分の価値観の表明でもあると思う。  まず、自分の中の価値観として、かっこつけないのがかっこいいということがあると思う。それは、自分の中のいろいろなところに表出していて、自分の欠点もかっこ悪いところも自発的に言ってしまうし言いたいし、それは、かっこつけないことがかっこいいという価値観があるからだと思う。さらけ出してこそ、と思ってる。どこか崩れた人間の美学というのがあるのかもしれない。かっこいいだけが人間ではないし、情けないところかっこ悪いところも含めて人間なのだ、それこそが美しい、という美意識が自分の中にあるのかもしれない。かっこつけてるかっこよさに辟易してるというか。  もちろんかっこいいエンターテイメントも好きだし、かっこいいことも好きかもしれない。だけど、人間はそれだけでは不自然だ、と思ってしまう。かっこいいという夢を見させるのが、大衆娯楽に必要なのはわかる。とてもわかる。そういうもんだと思う。  ジャズマンはしかし、かっこつけない。汚い格好で髪もぼさぼさでヨダレ垂らしながら演奏する人もいる。そこにはエンターテイメントとか商業主義とか大衆娯楽ではできない、ある種のかっこ悪さがあると思う。でも、少なくとも私にとって、その人たちの奏でる音楽は本当に素晴らしいものだ。それだけで十分なのだ、音楽にとっては。奏でられている音楽が、音楽のすべてなのだと思う。音楽にかっこよさは本当に必要なのだろうか。  彼らはミスをしない。それは演奏技術が長けているからではなくて、ミスも演奏のうち、ミスをミスにしない、ということなのだと思う。かっこつけてる人のミスはイタい。それが致命的になりうることもあるかもしれない。  音楽を音楽たらしめているのはいつも「歌」なのだと思う。ここでいう「歌」は発声することだけを意味しない。自分の好きな楽器を用いて歌うということ。そこにあるすべての音は、素晴らしい「歌」のためにあるのだ。音楽はメロディであり、ハーモニーであり、リズムである。「歌」はそれらによって成り立っている。  ジャズの肝は歌っている、ということだと思う。かっこつけることは決して中心にない。かっこつけるのが好きなジャズマンももちろんいるし、いろんな嗜好の人がジャズマンの中にもいると思う。即興で演奏するという性質上その音楽家の嗜好はとて