人と関わること

 書店でバイトしていた時、初めて働くことでというか、もっというと人に何かすることで、褒められたような気がする。だから、今でもわたしは書店で働くことに執着してしまうのかもしれない。
 両親はわたしを徹底して褒めない人だったし、学校生活でも褒められる機会ってそんなになかったと思う。友達として認められるとかそういうことはあったとしても、なんだかそれはとても空虚なものだと思っていた。少なくともきちんと何かに打ち込んで人に認められる、ということはなかったように思う。
 人に褒められることを、こそばゆいというか危ういことだ、という感覚が自分の中にあると思う。つまり増長するのではないかと。両親もそれを知っていたからわたしにそう振る舞ったのかもしれない。奉られたり共感されることに敏感なのもそれと通じているのかも。なんにせよ、褒められることにわたしは慣れていないし、どうしたらいいのかわからない。
 しかし、書店での印象的な出来事にはそういった感じはあまりなかった。自分の能力の成果を褒められたというか自分の打ち込んでいることを認められているという感覚があったから、少なくともその当時の自分の何かを形成していたとさえ思う。ある種、健全な自尊心というか。なんというかそれが幻想だとしても、社会人としてちょっとだけ認められたとさえ感じていたと思う。お金を媒介にするということだけでなくて、一人の人間として、というか。
 人に褒められる悦びの記憶というのは自分にとってはそのくらいなのだと思う。接客は楽しいし、本も好きだし、書店という空間も一応好きなのだけど、今の自分はいろんな理由から書店で働くことには適わない。自分に合っているかどうかはわからないけれど、それらの記憶がわたしを書店員という仕事に意識を今も向かわせているのだと思う。働く、というとまず書店員が浮かぶ。
 一方、文章を書いてそれによって人に褒められたという感覚は今のところ全くない。それでも文章を書くことは楽しいと思う。今の自分は書くことに打ち込んでいるとは言い難いから、褒められてもたぶん嬉しくはない。自分のために書いているという意識がかなり強いし、人に読まれるとか認められるとか褒められる、ということをほとんど想定していないように思える。
 世界の中の一部としての文章を書く態度として、たぶんそれは最悪なのだと思う。人に読まれることを前提としていないのなら、それは文章とさえいえない。少なくとも建前としてある一部の人にだけでも役に立つかもしれないという意識がないのならば、文章を公表する意味などないのだと思う。
 文章を書くことが楽しいというのはおそらく自分の考えが文字になっていくということが楽しいのだと思う。あるいは書くことによって自分の考えが整理され、思いもよらない発展をしていくことが楽しいのだと思う。客観化することはあっても、そこに他者はいない、たぶん誰ひとり。
 わたしは今のところいますぐにこの世からいなくなっても誰も困らない人間だと思ってる。わたしは社会の中で認められた存在ではないし、認められようと努めてもいないからだ。何かをすることによって自己実現しようとか、社会に認められたいとか、存在したいとか、あるいは単に誰かに褒められたいという気持ちが希薄なのだ。だからそういう態度しか取れないし、それが文章にも現れているのだと思う。
 わたしはどこかで心折れたのかもしれない。おそらくそれは障害によるのだけど、言い訳に過ぎないとも思う。心折れたことよりもそれに対する態度に自分の弱さを見ている。
 人に認められたいということなしに社会と関わるのは迷惑なのではないかと思う。認められたいと思う相手を(漠然と不特定に対してということではなく)具体的に特定の誰かを想定さえできないことはとても不幸だと思う。人と関わろうとしないのだから特定の誰かも具体的にならないのは当たり前のことだけれど、わたしは様々な面で他人にも自分にさえも期待していないのだと思う。
 自分を裏切っていると感じるのは、たぶんそこなのだと思う。引き裂かれている。心のどこかで人に認められたいと思っているのだと思う。もっといえば愛されたいと思っているのだと思う。でも、そうはしない、できない、どこか認めたくない。孤独がつらいとか友達が欲しいという話では全然ない。何かがわたしを堰き止めている。それは障害如何ではない。
 人に認められる悦びをわたしは知っているはずである。だからこそわたしは本に向かっていくのだと思う。しかし自分の中でなにかがズレていて、わたしを遮断している。ネットという希薄さに依存しすぎなのかもしれない。人と関わる悦びは、実人生で人と深く交わることでしか得られないかもしれない。ネットは具体的な人物像をそれほど提示しない。でもたぶん原因はそれだけじゃなくて、根本的に人と相容れないなにかが自分の中にある。薄さ、ということが問題ではなく、根本から拒否している。だから薄くても気にならないのだと思う。人と深く関わることをしない。信じられなくなっている。傷つくのを過剰に恐れている。
 認められるという以前に人と関わるということがない。人と関わるという選択肢が狭すぎる。それはたぶんもっと自由で、様々なバリエーションがあるのではないか。人との関係は、自分だけではけっして決まることではないけれど、視野を自分から狭めることもない。人は思ってるよりもたくさんいて、その一人ひとりに対して自分にとっての関わり方がある。生きている限りそれはその都度あらゆる人に対してずっと続いていく。なにもしていなくても。どんなに関係ない人にも世界中の人に対しても。多くの人に対しては無関心のように装い(それも関係の一つの形だと思う)、ある人たちとは何らかの形で関わっている。
 わたしはわたしなりの価値観で、考え方で、生き様で、人と関わっていける。そしてわたしは適応していくことができる。不自由さを決して言い訳にせず、広い視野を保ち続けることがわたしには必要なのではないか。文章を媒介として、わたしにできることがある。真摯に考え続けることで進んでく。わたしはかろうじて知っているはず、縁というもののなんたるかを。

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