或いはそれこそが幸せな日々

 お金がなくても幸福でいられるのなら、その方が良いと、わたしは思う。しかしそれはとても難しい。日本人に於いて清貧が尊ばれるのはそうであることがとても困難だからだ。
 漫画家の鳥山明さんは、幼い頃、貧しくやることがなくて両親とワルツを踊っていたそうだ。そういう幸福だって、あるのだと思う。あるいはそれこそが幸福だったのだ、と。
 貧乏だとしても幸せに過ごせる人と、そうでない人といる。それをある種、「人格」と呼ぶのかもしれない。それには少なくとも、ワルツを踊るというような工夫が必要で、そういうことは誰にとってもの幸福とは言えないかもしれない。普遍性を持った幸せではない。それをそう感受できることこそが幸福なのだと思う。自分で見つけなくてはならない。見つかるということは何かに祝福されているのだ。それはつまり才能なのかもしれない。
 幸福はお金では買えないかもしれないけれど、持っていることで少なくとも不幸を振り払うことは簡単かもしれない。人間に対する厄介ごとのほとんどはお金があれば解決できるかも。解決できないものも、もちろんあるのだけど。
 お金がないとあらゆることに余裕が無くなってしまう。財布の締め具合にも心の安定にも人間関係にも子育てにも。大袈裟に言うのなら、あらゆる失敗はそれすなわち命取りとなりかねない。
 「余裕」と「幸福」はほとんど同じ意味なのではないか。つまりお金を持っていても、余裕がなかったら幸せとは言えないかもしれない。逆を言えば、お金がなくてもあらゆることに余裕を保てるのなら、それだけで幸せと言えるのかもしれない。しかし、何度も書くけれど、それはとても難しいことだ。
 たとえお金持ちになったとて、倹約家であることをわたしは辞めないと思う。「倹約」と「余裕」と「幸せあるいは不幸せ」とは別であると思う。倹約でも余裕で有り得、そして幸福でもあり得ると思う。それとこれとは別である。ゴージャスが良いという価値観を一庶民のわたしは持ち合わせていない。それ相応の人生があるのだと心得たい。
 何事にも余裕のある生活をしたいけれど、それだけで幸せかというと疑問ではある。それはつまりわたしの価値観の問題だと思う。すなわち、「人に愛されてこその人生」なのではないか、と最近は思いつつある。
 今はそれなりに余裕もある。お腹いっぱい食べることができて、月にCDを何枚かと、本を何冊か買えたらそれでけっこう幸せなのだ。実際そうできている。貯金もそれなりにある。毎月貯蓄もできている。いうことなく幸福だと思っている。
 しかし、自分の嗜好や幸福を、自分の都合よく、あるいは状況によってしかたなく、変えていってしまうことほど簡単なことはないと思う。もしくは無意識に人はそうしてしまう。
 例えば、ネットに繋がって定額料金を支払えば音楽を聴き放題の世の中だし、図書館だってある。お金がないのなら、そういう嗜好へシフトしていくことだって簡単だ、ということ。幸福についての嗜好は変わる。それは価値観が変わるということ、変えてしまうということ。好むと好まざるとに拘らず、だ。
 だからこそ、わたしは自分の幸せに敏感でいたい。できるだけそれに忠実でありたい。叶えたい。そういうものが、在るのだとしたら。
 赤の他人に惑わされたくないのだ。と言いつつ、いろんなことに影響され、流され、日々を生きているわけだけど。
 みんな自分の認めたい「幸福あるいは不幸」を信じて生きているのだと思う。
 今、わたしにこういう生活ができて「しまって」いるのは、わたしにも、家族にも、余裕があるからだ、と言えそう。わたしはいま現在を、幸福だと感じてる。
 病気で一番しんどい時を乗り越えることができたのは、(少なくとも家族に)余裕があったからだ、と思う。その意味でもわたしは幸福だったと思う。恵まれてるって、思う。
 あるいは更になにかを求めるのなら(たとえば、人に愛されたい、とか)ば、今のこの幸福はいったん手放さなくてはならないはずだと思う。そしてその先に、未来に、また新たな幸福が待っているのかというと、それはわたしには到底わからないことだ。それが人生なのだ、と思われる。
 おそらく、幸福はお金では買えない。お金を目的に人を愛し愛されるフリをする人たちをわたしは識っている。
 人恋しいとはあまり思わない質だと自分では思うけれど、それでも今の状況は、何かが間違っているのだと思う。わたしは、ほとんど誰からも愛されてさえいないように感じてる。
 「愛」とはなんなのだろうか。人生の「幸福」とはなんなのだろうか。
 お金はたぶん大事である。生きていくためにも。自分が何者なのかを示すためにも。自分の未来のためにも。つまり成長のためにも。
 仕事は糧を得るためにするもの。わたしにとってそれ以上のものでは、今のところ、ない。おそらく、お金を持っていることで、なんらかの「不幸」を安易に振り払うことはできるのだろう。
 なにが「不幸」で、なにが「幸福」なのかは、わたし自身が自分の価値観で決めることだ。決して、それを人に委ねたり、譲ったりしてはいけないのだと思う。
 そうしがちだから困っているのだ。
 わたしはいま、独りに見えるかもしれないけれど、それなりにシアワセである。独りだから視えることもあるのだと思う。わたしが自分の「幸福」に対して鋭敏かどうかはわからない。ブレない何かを持っているとも言い難いし、日々成長しているのかも疑問だと思う。もっともっと効果的に自分を成長させる方法があるのではないか?
 思いわずらうことなく、愉しく生きたい、のである。

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