真っ当に愛し、愛されたい。
いろんなことについて、正しく考え、正しく選択して、正しく行動すれば、絶対なんとかなるはず、と思ってきたけど、「正しい」という概念自体に不安ができてしまって、混乱してる。それは、自分の思いたい、自分にとって都合のいい「正しさ」なのかもしれない。そこにはたぶんなんの根拠もないし、誰の担保もないただの戯言なのだ。あるのは自分の感覚だけで、そしてそれにはきっといろんな偏向が混じってるし、いろんなことに影響され、作用されてる。それを自分が思っていることだと信じている。自分の考えなんて、たぶんない。正しさもない、どこにもない。 言葉でしゃべって、人と交錯することを、わたしは良しとしていないのかもしれない。人と交流することは否定していないにせよ、わたしには、絶対になにかある。ただ脳細胞の分泌によって何かが起きているに過ぎないとは決して言えない。なにかエピソードがあったのだろうか。思い当たる節はない。あるいはなんらかのエピソードによって恢復するところまできていると思う。重大なことを置き去りにしたまま、わたしは生きてしまっている。そのことに危機感もない。 要するに、人との関わりにズレを感じているのだ。それは、自分に自信がないからかもしれない。自分に自信がないのは、人を愉しませられるかどうか、という点なのだと思う。外見ばかりで判断され続けて、わたしはすっかり自分という人間に自信のない人間となってしまった。人に好かれなくてもいい、というのは自己防衛でしかない。好かれなくてもいいって思うのは勝手だけど、それはとてつもなく生きにくい暮らし方だ。好かれた方が良いに決まってるし、好かれた時に、きちんと応じられる人間にならないといけない。それがどんなに不当だったとしても。 たぶん多くの点でわたしは 期待に応えられない 、だろう、というところから自信のなさが芽生えている。関心を持たれないならともかく、持たれた上で期待を裏切ってしまうのはしんどいのだ。 笑わせる必要は必ずしもたぶんなくて、愉しませられるかどうか、なのだと思う。つまりそれは サービス精神 。わたしの振る舞いによって人を不愉快にさせるということはなくても、応じ方によっては、不快にさせるかもしれない。たぶん、そこのところで齟齬というか、人との間に感覚のズレがあるのだと思う。 ...